銀座いなり探訪

銀座いなり探訪

銀座いなり探訪 第3回 お江戸の銀座を古地図探訪

今回は、神社への探訪はお休みです。代わりに江戸時代の銀座の移り変わりを古地図で辿ってみましょう。

荻窪
さて、前回に続き、今日はどのお稲荷さんへいきますか?
宇井野
はい、早速!と言いたいところなんですが…
今回の取材はお休みなんですよね。
荻窪
ああ。残念。
宇井野
そうなんです。2020年。この年は歴史的な出来事がおこりました。
コロナという疫病が発生し、東京都内は1ヶ月以上にわたる外出自粛を余儀なくされるという前代未聞の事態に。
荻窪
わたし、4月の緊急事態宣言以来、銀座には訪れてないのですが、どんな感じだったんでしょう?と気になっています。
宇井野
それが、荻窪さん、このにぎやかな銀座の街に一切の人の姿がない!という摩訶不思議な風景を見ることになっていました。印象的だったのは、大小様々な施設が、さっと休業体制にはいったことです。
感染を予防するためにきりっと店を閉めたのはさすが銀座だ、と思いました。
荻窪
緊急事態宣言は解除されて出歩く人は増えていますが、それと同時にまた感染者も増加してますしね。以前の様に気軽に銀座へ出かけようとは言えない状況ですものね。
宇井野
そこで今回は、実際の神社探訪をお休みして、パソコンとイメージの中で時代を超えて銀座探訪をしてみたいという趣向です。
荻窪さんは、今までもたくさんの街歩きの案内をされていますが、銀座の街をとりあげることもありますか?
荻窪
実は街歩きで銀座へ行ったことはないのです。わたしはもともと自転車で都内を走り回っているうちに、古くからある道は走っていて楽しいということに気づいて、「東京古道散歩」という本を書いたのがはじまりなのですが、そのとき、江戸時代以前の道を中心に探っていたので銀座は後回しになってたのですね。
宇井野
ということは、銀座の歴史は江戸時代から?
荻窪
そうです。実は江戸時代以前の銀座エリアは東西を海にはさまれていたのですね。日本橋から新橋あたりまで、中央通りを中心に南に突き出た半島状の土地で「江戸前島」と呼ばれていたんです。
たとえば銀座の西側にある日比谷ですが、あそこは海だったのですね。正確には新橋のあたりから日比谷まで入り江になっていて「日比谷入り江」と呼ばれてたのです。大雑把にいえばこんな感じ。
宇井野
なんと!銀座は陸地で日比谷は海だったということですか?
荻窪
そうなんです。日比谷は海なのに銀座は陸! 砂州でできた半島というか、もう「銀座半島」と読んでいいかも。で、日比谷入り江を家康が埋め立てさせて、もともと陸地で地盤が安定していた銀座の土地に東海道を通し、埋め立て地に残した水路に橋をかけ、芝の方へほぼ海岸沿いに街道を作ったのですね。我々にとって、「新橋」は、めちゃ古いけど、当時の新しい橋ということで、名付けられたから新橋なんです。だから今でも銀座はほんのちょっとだけ標高が高いんです。
宇井野
うわー、すでに、想像するのがむずかしくなったぞ。
荻窪
では、わかりやすく地図にあてはめてみましょう。いろんな本や地質図を元に大雑把に描いたのがこんな感じです。
宇井野
なるほど、イメージできてきました。それにしても不思議。でもそのあとの様子については江戸時代のことなので荻窪さんは詳しくはないのかしら?
荻窪
それが、ですね。実はわたし昔から古地図が大好きで、昔から古本屋で安いのを見つけては買ってたんです。さすがに明治時代のは高価なのでほとんど持っていませんが、大正時代以降の東京の地図はけっこうあります。で、江戸時代の地図はとなるとまともに買うと庶民には手が出ないのですが、国立国会図書館が所蔵する江戸時代の地図をデジタル化してネットで公開しているんですよ。徳川将軍の名前とか事件と年号は苦手ですが、地図で町の変遷を見るのはイケるんです。なので江戸時代から昭和まで町の変遷はけっこうイケるんです。
宇井野
国立国会図書館! ありとあらゆる資料がありますよね、つい脱線してあれこれ見たくなっちゃう。
荻窪
そう、その国会図書館に「武州豊島郡江戸(庄)図」というのが見つかったのですよ。解説によると「現存する江戸図の最古版とされる。」とあり、寛永9年頃と考えられているそうです。
「武州豊島郡江戸(庄)図」 国立国会図書館デジタルコレクションより。1632年頃のもの。
「武州豊島郡江戸(庄)図」 国立国会図書館デジタルコレクションより。
1632年頃のもの。
宇井野
寛永9年……と言われても、江戸時代って長いから、どのあたりか、ってすぐに思い浮かばないなあ。
荻窪
ですよねー。西暦だと1632年。徳川家康が征夷大将軍になったのが1603年なので、江戸時代がはじまって約30年。将軍は3代目の徳川家光の頃です。
宇井野
じゃあ、ほんとに江戸時代初期ではあるけど、そろそろお江戸が整ってきた頃なのかな。
荻窪
ですね。この地図の銀座あたりを拡大して見ましょう。わかりやすいよう、拡大してちょっと見やすくしたのがこちらです。江戸時代の地図は西が上になっているものが多くて、これも上が西、右が北になっています。
「武州豊島郡江戸(庄)図」 国立国会図書館デジタルコレクションより。1632年頃のもの。
「武州豊島郡江戸(庄)図」 国立国会図書館デジタルコレクションより。
1632年頃のもの。
宇井野
現代の地図は、北が上ですよね。それに慣れてるから、なんだかわからなくなってきちゃった。
荻窪
こういうときは昔も今も変わらず残っている地名を探すとよいです。この地図だと、右端に「京橋」、左端に「新橋」があります。京橋は読めますよね。新橋は字がかなり崩れていますが、まあ想像できるかと思います。新橋を拡大して見ましょう。国立国会図書館デジタルコレクションが偉大なのは、すごく高解像度でデジタル化してくれているのでめちゃ拡大できるところなんですよ。
「武州豊島郡江戸(庄)図」 国立国会図書館デジタルコレクションより。1632年頃のもの。100%に拡大してみた
「武州豊島郡江戸(庄)図」 国立国会図書館デジタルコレクションより。1632年頃のもの。100%に拡大してみた
宇井野
三十間堀と書いてあるのが読めます。これは前回、朝日稲荷探訪の時に話で伺った、ご神体があらわれた堀ですね。新橋もなんとなくそれっぽい。かわいい橋の絵も描かれてる。
荻窪
そう。実は新橋って三十間堀にかかってた橋だったのですね。
宇井野
新橋の隣にある橋は?
荻窪
なみた橋、って書いてありますね。
宇井野
荻窪さん、くずし字、お強いですね。
荻窪
う。すみません。実は自信がなかったので他の江戸絵図を探したのです。そしたら「カタカナ」で書いてある地図がありまして。絵図によって地名が漢字だったりカタカナだったりくずし字だったりしてややこしいのですよね。では、京橋あたりを拡大して見ましょう。京橋は現代人でも読める字で書いてありますね。
「武州豊島郡江戸(庄)図」 国立国会図書館デジタルコレクションより。1632年頃のもの。
「武州豊島郡江戸(庄)図」 国立国会図書館デジタルコレクションより。
1632年頃のもの。
宇井野
あ。銀座だ! これ、銀座ですよね。
荻窪
そう。ここに「銀座」があったからこの辺が銀座と呼ばれるようになったんですよ。で、銀座一帯は町人のエリアなのでそれぞれ「なんとか丁」とあります。丁と町は同じだと思って構いません
宇井野
地図っておもしろいですねえ。言葉で説明を聞いても「ふーん」という感じですが、地名とその配置で当時の証拠を見せられると街が具体的にイメージできて納得です。
荻窪
そうなんですよー。銀座は銀貨を鋳造する場所ですが、幕府が許可した商人に作らせていたので、町人エリアにあったのです。1612年にここに銀座が設けられたそうです。その後、不正事件が起きて1800年に移転したのですが、名前だけは残ったのですね。
宇井野
不正事件!何があったんだろう?気になりますね笑 宣教師が日本に来た頃っていうのは、日本は銀の産出量が世界屈指だったと聞いたことがあります。江戸時代も、銀貨鋳造は盛んだったんだろうなあ。そういえば今でも銀座二丁目には銀座発祥の地の碑がありますね。銀座の跡が銀座役所となって地名として定着したみたいです。
荻窪
さっきの銀座全体図に話を戻しますと、三十三間堀の先には武家屋敷がちょっとあるだけで、その東はもう海ってのがわかります。
宇井野
ほんとだ。銀座の裏はすぐ海だったのですね。舟も描き込まれてる…
荻窪
すごいのはそのあと。1682年の地図……つまり50年後にはこんなです。もうすっかり海が遠くなってます。ちなみに赤く塗られているのが東海道、つまり今の中央通りですね。東京湾を埋め立てて土地を拡げるっての、この頃からはじまってたのですよねえ。もはや東京の伝統といっていいでしょう。
「増補江戸大絵図 絵入 天和2年(1682)刊」国立国会図書館デジタルコレクションより。赤く塗られているのが東海道(今の中央通り)。
「増補江戸大絵図 絵入 天和2年(1682)刊」国立国会図書館デジタルコレクションより。赤く塗られているのが東海道(今の中央通り)。
宇井野
わあ、すごく拡張されている!土木技術もすごいですね。
ところで、貨幣鋳造の場所だったから銀座、という地名なのですよね。「金座」はあったのでしょうか?
荻窪
もちろんありました。
宇井野
あったなら、金座は地名に残らなかったのは、なぜかなあ
荻窪
思い切り残ってますよ。当時、金座がある場所は「本両替町」と呼ばれてました。文字が読みやすいところで1772年の地図です。なぜか日本橋が赤く塗られていますが、地図の前の持ち主が目印として塗ったのでしょうねえ。
「分間江戸大絵図 明和9年(1772)」 国立国会図書館デジタルコレクションより
「分間江戸大絵図 明和9年(1772)」 国立国会図書館デジタルコレクションより
宇井野
これのどこに金座?
荻窪
日本橋の右上に「常盤橋御門」があります。常盤橋は今は改修中ですが御門の石垣が残っています。それと日本橋の間に「本両カヘ丁」とあります。これがそうです。
宇井野
今のどこになるのでしょう?
荻窪
昔の金座レベルで日本のお金をコントロールしているところといえば……
宇井野
日本銀行!
荻窪
そう。この一帯に今の日本銀行があるわけです。ちなみにこの地図だと今の銀座がちゃんと「銀座」と漢字で書いてあって読みやすいのでおすすめです。おすすめと言われてもこまるでしょうが。というわけでこの1772年の地図で銀座を見てみましょう。
「分間江戸大絵図 明和9年(1772)」 国立国会図書館デジタルコレクションより。黄色く塗られているのが東海道(今の中央通り)。基本的な町割りは今と同じ。
「分間江戸大絵図 明和9年(1772)」 国立国会図書館デジタルコレクションより。
黄色く塗られているのが東海道(今の中央通り)。基本的な町割りは今と同じ。
宇井野
これを見ると、銀座は四丁目まで。今の五丁目以降は尾張町や竹川町になってますね。
荻窪
で、銀座のあたりが周辺部と違うのに気づきません?
宇井野
ぐるりとお大尽たちの屋敷が!
荻窪
水路に囲まれた京橋と新橋間は「町」、つまり町人のエリア、そしてその周辺は武家屋敷なんですよ。家紋が書いてあったり名前が書いてあります。古地図って面白いでしょう。
宇井野
ウォーターフロントに高級住宅、は現代に始まったことではないんですね。
人口とともに大きくなっていった街。そしてそこに町人も武士も手をあわせた稲荷神社が点在していた。お屋敷や長屋は時代とともに姿を失っていったけど、小さな神社は今も残っているんですね。人々が想いを積み重ねていった小さなお社をまた訪ねていきましょう。