銀座いなり探訪

銀座いなり探訪

銀座いなり探訪 第16回 宝童稲荷

お寺や神社の周囲が門前町として栄えているところは皆さんのご近所にもあるのではないでしょうか。
祈りの場を核として人々が集まる街となる…
その歴史をくっきり見せてくれる小さな神社を今回はご紹介します。

銀座4丁目の銀座レンガ通りと並木通りの間にある狭い路地に宝童稲荷は鎮座している。
銀座4丁目の銀座レンガ通りと並木通りの間にある
狭い路地に宝童稲荷は鎮座している。
宇井野
荻窪さん、宝童稲荷へようこそ。
荻窪
今回の待ち合わせは、いつもとちょっと違いますね。
宇井野
はい。今日は荻窪さんには宝童稲荷の門前にある五十音というお店に来てもらいました。
改めて自己紹介いたしますが、私はこの五十音の者で、銀座4丁目の宝童稲荷の日々のお世話をする守人(もりびと)でもあります。「銀座いなり探訪」という連載が始まったのは実はその辺りがきっかけなんです。
「五十音」の中から撮影。真向かいに宝童稲荷が鎮座している。
「五十音」の中から撮影。
真向かいに宝童稲荷が鎮座している。
荻窪
おお、そうでしたか。実は宇井野さんと出会う前だと思うのだけど、今の社殿ができる直前に一度このあたりに来てるのですよ。何がある路地なのかな、と入ってみたら、この五十音という小さなお店がありました。そのときは一体何の店だろう?と怖くて中に入らなかったのですが(笑)、向かいのビルの片隅に四角い小さなスペースがぽっかり空いていて…ここは一体?と思って写真を撮ってたんですよ。その後訪れたら神社になっていてびっくりしました。
銀座レンガ通りと並木通りの間にある狭い路地に入り込んだら、左手に五十音、右手に工事中の小さな空間があった。2008年9月撮影
銀座レンガ通りと並木通りの間にある狭い路地に入り込んだら、
左手に五十音、右手に工事中の小さな空間があった。
2008年9月撮影
ここに宝童稲荷の祠が建てられるのだった。2008年9月撮影。
ここに宝童稲荷の祠が建てられるのだった。2008年9月撮影。
宇井野
今の社殿への建て替えが2007年の11月から工事が始まり、新社殿へのご遷座が2008年10月24日でしたね。
荻窪
再開発があってもしっかり維持管理されてたということですね。新しいこともあって、すごくきれいでお供えもしっかりされていて、観光客には見えないところで大事にされてるんだなと。それにしても宇井野さんがここを守っているとはまったく知らず。
宇井野
その辺りはなんとも不思議なご縁ですね(笑)
荻窪
宇井野さんが守人を始められたときは、宝童稲荷はどんな感じだったのですか?
宇井野
古いお社、私の手元だと、本に使った写真があるんですが、今と違って、三段の階段で本殿前まで、昇れました。でも開扉はお祭りの時だけで閉鎖的な感じ。いまはぐっと明るく開放的です。
荻窪
今と同じ場所にあったんでしょうか?
宇井野
はい、場所は同じです。関東大震災前は、町内の別の場所だった、という記録は見つけました。
荻窪
震災で今の場所に遷座されたのですね。稲荷自体は江戸時代からあったのでしょうか?
宇井野
はい、宝童稲荷は江戸城内の稲荷社から分祀された、と言われています。当時、このあたりは弥左衛門町と呼ばれていて、名前は当時の名主の弥左衛門から。弥左衛門さんは「掃除ノ者」という、城内のお庭の管理の職務だったという話もあり、そうなると宝童稲荷は江戸城内から…というのもわかります。町自体は、八重洲の老月町の代替え地として寛永5年にスタートしたそうですから、稲荷が江戸城から分祀されたのもその頃、またはそれ以前、かな。そんなことが伺える古地図とかあるかしら。
荻窪
江戸切絵図の「築地八町堀日本橋南絵図」に「弥左エ門丁」がありますね。銀座4丁目の並木通りを挟んだ両側町だったようです。
『〔江戸切絵図〕』築地八町堀日本橋南絵図(尾張屋清七,国立国会図書館デジタルコレクション)を加工
『〔江戸切絵図〕』築地八町堀日本橋南絵図
(尾張屋清七,国立国会図書館デジタルコレクション)を加工
荻窪
江戸時代の町って、開発した人の名前がついていることが多くて面白いですよね。ところで「宝童」ってあまり聞かない言葉なのですがどういう意味なのでしょう?
宇井野
それがはっきりしたことはわからないんです。でも、元になった稲荷は城内で将軍の世継ぎが無事育つように、と祀られたものだそうですから、子供を宝物とする名前はそこからかもしれません。
荻窪
ちなみに宝童とついた稲荷や神社は検索しても見つからないですねえ。お寺だと…おお、宝幢院(ほうぼういん)というお寺が東京にもあります。宝幢は「宝珠で装飾した幢(はた)」も指すそうですから、そこから宝童に変わっていった…なんていう想像もできますね。
宇井野
弥左衛門町は、明治以降は出版社も多く、北村透谷が住んでいたことでも有名。だから、きっと昔から文学的なセンスのある人がいて、綺麗に名付けたのかもしれませんね。
荻窪
まとめると、弥左衛門さんが弥左衛門町の名主になったとき、町の鎮守として稲荷……それも江戸城内の稲荷を勧請したといわれているのがはじまりで、今は銀座4丁目の鎮守となっている、ということですね。
宇井野
銀座の町会は、小さい区分けがあるので、正確には4丁目の並木通り周辺の鎮守、という感じです。宝童稲荷が旧弥左衛門町に密着してるのにはもうひとつ理由があります。
荻窪
それは気になります。
宇井野
この稲荷を管理しているのはここの町会なのですが、焼け落ちてしまった稲荷再建を核にして地域の皆が集まり、それを町会化した、という流れがあるんです。
荻窪
ああ。なるほど。稲荷と一緒に町も復興させようという感じだったのでしょうね。
宇井野
でも、宝童稲荷は町会の方のみならず各地の方の信仰を集めてます。その証拠がこの幟。
荻窪
どんな幟なのでしょう?
宝童稲荷のきれいに染められた幟
宝童稲荷のきれいに染められた幟
宇井野
幟は年に一度、掛け替えしています。ここはとにかく小さい稲荷社なので、幟も特注のミニサイズ。奉納の方のお名前は、幟の朱に合わせて手書きですが、裏からも書き上げて、まるで染め抜きみたいに仕上げてます。遠方の方も奉納してくださってるんですよ。
荻窪
ああ、いつ参拝にいっても明るい印象なのは、鮮やかな幟のおかげもあるのかも。しかも、裏路地ながら銀座レンガ通りから小さな案内があるのもいいですよね。なぜかチンパンジーなんですが…
銀座レンガ通りからはチンパンジーの案内通りにビルの間の狭い路地を抜けて参拝できます
銀座レンガ通りからはチンパンジーの案内通りに
ビルの間の狭い路地を抜けて参拝できます
宇井野
これはこのビルの装飾アートです。ですので稲荷とは直接関係はないのです。ビルオーナーは、私有地を参道として提供してくださっていて、それに合わせてブロンズ像も稲荷を案内するポーズでオーダーされたようですよ。天賞堂の天使と並んで、この一角の人気の撮影ポイントです。ただ参道自体がちょっとわかりにくいので、参拝の皆様からは、千本鳥居みたいになっていればいいのに!とよく言われます。稲荷や銀座の街の風情を大切に守っているこの町会ならいつか実現してくれるかな。
荻窪
それにしても銀座のいなりをいっぱいめぐりましたが、それぞれの残り方があって良いですね。屋上へいったりビルの隙間へいったり、移動できるようになってたり。宝童稲荷はこうしてちゃんと土地を確保してもらって更には参道もできた。とても良かったなと思います。
宇井野
先人たちの苦労と、今ここで実際に商売を展開したり働いている人、少なくはなりましたが住居として暮らしている方々の努力の賜物ですね。町会という組織が稲荷を時代の荒波から守り続けている。そして稲荷が町会という集合体を団結させることで守る。これは、町稲荷の現代らしい形の一つだ、と思います。私も守人として皆様が気持ちよく参拝していただけるよう努めたいと思います。
参道を抜けるとあらわれる宝童稲荷。赤い鳥居と小さな幟が目印。
参道を抜けるとあらわれる宝童稲荷。
赤い鳥居と小さな幟が目印。