銀座いなり探訪

銀座いなり探訪

銀座いなり探訪 第11回 金春稲荷

各地から人々が集まる街、銀座。たくさんのアンテナショップも名産品を並べてご当地色を展開しています。
銀座という一つの街の中にいろいろな表情を感じるのはそんなことも関係しているかもしれません。今回はどんな表情のお稲荷様が舞台となるのでしょうか。

銀座八丁目の新橋会館屋上に「金春稲荷」は鎮座している
銀座八丁目の新橋会館屋上に「金春稲荷」は鎮座している
荻窪
今回は銀座八丁目ですね。銀座の一番南。道路を一本超えたらもう新橋。
宇井野
新橋という橋が本当にあったんですよね。
荻窪
そうです。今は完全に埋め立てられてますが、首都高の真下に三十間堀が流れていて、そこにかかっていたのが「新橋」です。だから雰囲気も新橋に近いのかなと思ってましたが、いざ来てみると、雰囲気は銀座ですね。
宇井野
小説やドラマで登場する、ネオン華やかな「銀座」はまさにこの辺りだと思います。
荻窪
でもこの辺に稲荷ってあります? 見当たらないのですが。
宇井野
実は、今日参拝するお稲荷様は、現在は東京新橋組合のある新橋会館の屋上に鎮座されていて、普段は一般には公開されていないのです。お名前は「金春稲荷」といいます。
見番通りと花椿通りの角にある新橋会館。
見番通りと花椿通りの角にある新橋会館。
荻窪
読み方は「こんぱる」でいいんですよね。そういえば「金春湯」という銭湯がありますよね。「金春」って名前は知っているのだけど、能の流派でしたっけ。
宇井野
はい。能の金春流のことです。金春流は、奈良の興福寺や春日大社に奉仕していた「円満井座」がルーツ。能楽は、世界的にも古い歴史を持つ舞台文化ですが、その中でも、もっとも歴史が古い流派なんだそうです。そして今も毎年、興福寺の薪能、春日若宮様の「おん祭り」で舞台を奉納しているのですよ。
荻窪
歴史を背負った名前なのですね。さて、その金春の名がなぜ銀座に?
宇井野
秀吉に贔屓されていた能ですが、江戸時代になり、幕府直属の能役者として今の銀座周辺に知行地を与えられていたんです。金春もそのひとつで、その場所が銀座八丁目(当時の山王町)だったんですね。
荻窪
だから金春通りや金春湯に名前が残っているのか。事情を知らないと「なぜ金春?」って思っちゃいますよね。では例によって、古地図で当時をチェックしてみましょう。まずは江戸時代末期の江戸切絵図です。
幕末の江戸切絵図(国立国会図書館デジタルコレクション)より。銀座八丁目に「金春屋敷」が描かれている。
幕末の江戸切絵図(国立国会図書館デジタルコレクション)より。
銀座八丁目に「金春屋敷」が描かれている。
宇井野
ありますね。金春屋敷と中央通りの間にある道が今の金春通りでしょうか。
荻窪
そうですね。さらに江戸時代初期の絵図にはまだ金春通りはなく、「金春七郎」と書かれてます。江戸時代初期から金春家の土地だったのがわかります。能が武士の嗜みだった時代、徳川家康が上方から江戸へ連れてきたのでしょう。
元和2年(1616年)のものといわれる「武州江戸庄図」。今春七郎(昔は「今春」と書いたこともあったよう)と書かれてます。(国立国会図書館デジタルコレクション)より。
元和2年(1616年)のものといわれる「武州江戸庄図」。
今春七郎(昔は「今春」と書いたこともあったよう)と書かれてます。
(国立国会図書館デジタルコレクション)より。
宇井野
では金春通りに行ってみませんか。
荻窪
行きましょう行きましょう。江戸時代の名残はあるかしら。あ、ノーブルパールというお店の前に古い煉瓦や古い木の樋がありますね。ほう、この木の樋は江戸時代の水道管だったそうですよ。煉瓦は明治時代初期のものだとか。
江戸時代に使われていた木の水道管(樋)。
江戸時代に使われていた木の水道管(樋)。
発掘された明治時代の煉瓦の一部が金春通り沿いに残されている。
発掘された明治時代の煉瓦の一部が
金春通り沿いに残されている。
宇井野
銀座八丁目の工事で発掘されたものの一部がここに移設されて残ったそうですよ。実はこのお店の中にもレンガが一部残っているそうなので見せていただきましょう。こちら、昭和22年から銀座に店と住居を構えて様々な活動をされているんです。
ノーブルパールの店内にて。お店の一部に明治時代のレンガが上手にあしらわれてるのがすごくおしゃれ。手前にある写真パネルは、レンガ塀発掘時の様子。このときの煉瓦ですよと教えていただいた。
ノーブルパールの店内にて。
お店の一部に明治時代のレンガが上手にあしらわれてるのがすごくおしゃれ。
手前にある写真パネルは、レンガ塀発掘時の様子。
このときの煉瓦ですよと教えていただいた。
荻窪
発掘されたレンガが地元でこのようにさりげなく残されているのがいいですね。それにしても、この煉瓦で作られた銀座の町を一度見て見たかったものです。それで、金春稲荷の話はどこへ?
宇井野
その後の歴史があるんですよ。江戸時代後期の1780年に金春家が移転したあと、幕末になるとこのあたりが歓楽街になり、集まっていた芸者たちが「金春芸者」と呼ばれるようになったんです。屋敷の跡地に茶屋や置屋がずらりと並ぶようになったのですね。
荻窪
ここは日本最初の鉄道である新橋駅にも近いし、街道にも近いし、官庁街にも近いしで、明治の頃は夜な夜な政治家らが集まっていたのでしょうね。当時は、親しくなった芸者を妻に迎える著名な政治家もけっこういましたし。
宇井野
そして見番も作られました。金春通りの1本裏の道の「見番通り」という名で残ってます。新橋の芸者さんの稽古場がある新橋会館も見番通り沿いにあるんです。
荻窪
新橋芸者といいながら、実際は銀座八丁目が本拠地だったのですね。それと金春稲荷の関係は? 調べてみると、金春稲荷は金春家の屋敷神で、この金春通り沿いにあったみたいですが、今はないですよね。
宇井野
それが今は東京新橋組合の立派な稽古場がある新橋会館の屋上に遷座されているんです。
荻窪
中世から続く日本の伝統芸能である「能」が芸者さんと結びついた?
宇井野
そういうことですよね。茶屋に芸者衆を派遣したり管理する見番があり、踊りや邦楽の稽古をする建物の屋上に、最古の伝統芸能といわれる能の宗家の屋敷稲荷が鎮座しているというのはすごく縁が深いと思いませんか。今は一般公開されてませんが、会館にお稽古にくる芸者さんは、手を合わせていらっしゃるそうです。そして!
荻窪
そして?
宇井野
今回は特別な許可をとって、いなり探訪の記事用にお写真を撮らせていただけることになりました。ですから、撮影前にしっかりご挨拶の参拝させていただきましょう。
荻窪
おお。ありがとうございます。行きましょう行きましょう。こじんまりとしてますがきれいな稲荷ですね。
新橋会館屋上に祀られている金春稲荷。
新橋会館屋上に祀られている金春稲荷。
さりげなく屋根が。カラスが賽銭箱に石を入れていくこともあったそうです。
さりげなく屋根が。
カラスが賽銭箱に石を入れていくこともあったそうです。
荻窪
銀座と金春流の関係は屋敷稲荷とその名前だけが残ったという感じなのでしょうか?
宇井野
実は、名前だけではなく今でも深いつながりがあります。このあたりの文化の聖地だった一角に古くからお住まいの方々が、先ほどの煉瓦の一部を残しているように、かつての町の面影を残したり復活させることに情熱を注いでるんですね。その思いと金春円満井会の協力のもと、毎年この金春通りで「能楽金春祭り」が開催されるんです。町内の特設の舞台で金春流ならではの演目が奉納されます。そのときには先ほどのノーブルパールさんのショウウィンドウに御旅所も作られて、祭りの期間だけ、金春稲荷様もそちらにいらっしゃいます。つまり、普段お参りできないお稲荷様に参拝できる、ということなんです。
荻窪
それは素晴らしい取組ですね。能を知る機会も少なくなっていますから、ぜひその日に銀座を訪れてみたいですね
宇井野
芸能ってもともと神様に捧げるものが発祥。今回はその芸能が江戸時代からの歴史が現代に、それぞれの時代に相応しい形で受け継がれているのを見守ってきた神社ということで納得!という感じです。金春稲荷様は、文化や伝統を守るために日々精進されている方々をこれからも守ってくださるのでしょうね。