GINZA CONNECTIVE (高嶋ちさ子対談シリーズ)

谷澤 信一×高嶋 ちさ子

GINZA CONNECTIVE VOL.26

谷澤 信一×高嶋 ちさ子

2013.11.01

ヴァイオリニストの高嶋ちさ子さんと、銀座人たちの対談シリーズ。高嶋さんにとって銀座は、仕事でもプライベートでも思い入れのある街。そんな高嶋さんに、ゲストの方をお迎えして銀座のあれこれをディープに聞いていただきます。今回のゲストは、鞄専門店の老舗「銀座タニザワ」の4代目、代表取締役社長の谷澤信一さんです。

「鞄」という字を考案した銀座タニザワの歴史

高嶋さん
お店の創業はいつですか?
谷澤さん
明治7年創業です。来年で140年目になりますね。
高嶋さん
もともと鞄屋さんだったんですか?
谷澤さん
明治7年に初代の谷澤禎三(たにざわていぞう)が栃木県から出てきて、当時の日本橋三丁目で、当時はまだ鞄という名称がついていなかったのですが、鞄作りに手を染めました。現在の場所に移動してきたのが明治23年のことになります。
高嶋さん
その「鞄」という文字はタニザワさんが発案したと聞いていますが…。
谷澤さん
ええ。当時はまだ「鞄」という言葉はなかったんですよ。明治10年の第一回内国勧業博覧会で出品した品、いわゆる手提げ鞄だったそうですが、受賞して賞状をもらいまして、それには「提嚢(ていのう)」と書かれてあったそうです。その後、東京府第一勧工場という現在のデパートに近い役割の場所でこの品物を売る際に、この品の名称をどうするかという話になり、「革包(かくほう)」と書くようになっていたそうです。これを禎三の提案で、「革」と「包」を一文字としまして、かばん=鞄と読ませたのがはじまりだったみたいですね。
高嶋さん
へえ~、すごい!
谷澤さん
中国では「鞄」という漢字はあったみたいで当時も使われていたそうですが、日本でこの文字が辞書『言海』に掲載されたのは、それから12年後のことだったそうです。

愛され続ける名品・ダレスバッグの誕生

高嶋さん
タニザワさんといえば、ダレスバッグが有名ですね。
谷澤さん
親子2代で使って下さっているお客様もいらっしゃいますし、修理しながら長年お使いになっておられるお客様も多いです。今でも国産にこだわって、職人さんたちがハンドメイドで仕上げているんですよ。
高嶋さん
お店のオリジナルなんですか?
谷澤さん
いえ、元々欧米にはありまして、ビジネスバッグのひとつですね。1951年に対日講和条約締結のために来日した、ジョン・フォスター・ダレス国務長官が持っていた鞄なんですよ。これが2代目(谷澤甲七)の目にとまり、試行錯誤の上に商品化され、“ダレスバッグ”というネーミングと終戦直後という時代もあり“シンボル・オブ・ピース”というキャッチフレーズで売り出しました。
高嶋さん
それが、大ヒット商品となったわけですね?
谷澤さん
当時5000円という価格にもかかわらず、かなり売れたようですね。大卒の初任給が8000円という時代に、すごいことだと思います。
高嶋さん
それはすごい高級品ですね…!そんな高級な鞄にもかかわらず、時代が変わった今でも売れ続けているということは、本当に皆さんに愛されている鞄なんですね。

ダレスバッグ

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