GINZA CONNECTIVE (高嶋ちさ子対談シリーズ)

細野 佳代×高嶋 ちさ子

GINZA CONNECTIVE VOL.21

細野 佳代×高嶋 ちさ子

2013.06.03

ヴァイオリニストの高嶋ちさ子さんと、銀座人たちの対談シリーズ。高嶋さんにとって銀座は、仕事でもプライベートでも思い入れのある街。そんな高嶋さんに、ゲストの方をお迎えして銀座のあれこれをディープに聞いていただきます。今回のゲストは、終戦直後の1948年に誕生した和菓子屋「銀座あけぼの」の三代目代表取締役社長、細野佳代さんです。

戦後、焼け野原の銀座で祖父母が創業しました

高嶋さん
まずは「銀座あけぼの」さんの屋号の由来から教えていただけますか。
細野さん
はい。「銀座あけぼの」という屋号は、創業が終戦直後の昭和23年であったため、日本の新しい夜明けと言う意味を込めて付けられたそうです。
高嶋さん
銀座で創業されたんですか?
細野さん
そうです。当時は銀座も焼け野原だったと聞いていますが。たまたまその当時、砂糖が手に入ったそうなんです。それを祖父母がみなさんに提供できないかと考え、お汁粉を作ってこの場所で売り始めたのが始まりです。物資が不足するなか、お手玉に入った小豆を買い集めて作ったんですよ。
高嶋さん
すごいバイタリティ!ご夫婦で立ち上げたんですね。今では全国展開されていますよね。
細野さん
祖父母ふたりで創業し、父の代で全国展開をはじめたんです。今では、東京を中心に北海道から九州まで約90店舗展開しています。
高嶋さん
素晴らしいですね。和菓子って世代を超えて喜んでいただけるのがいいですよね。私も子どもの出産の内祝いに、ヴァイオリンのマークのオリジナル刻印を饅頭に押してもらって配りました。すごく喜んでもらえて。
細野さん
そういう風に利用していただけると嬉しいですね。うちでも、“もちどら”というロングセラーの商品がありますが、それには刻印を押せますよ。
高嶋さん
えー、お願いしたいです! 今度利用させてください。
細野さん
ぜひ!よろしくお願いします。

銀座あけぼの 銀座本店 離れ

もちどら

店名のロゴは、ダウン症の妹が書きました

高嶋さん
細野さんは、ずっと跡を継ぐことを考えていらしたんですか?
細野さん
いえいえ、全然。もともとは教師になりたかったんですが、教育実習の時点で挫折してしまって(笑)。じゃあもういいやと思って、父の会社に入れてもらったんです。結婚したら専業主婦になると思っていたんですけどね。
高嶋さん
それがそのまま…
細野さん
はい。そのまま27年(笑)。入社して最初の配属は、和菓子を作る工場でした。そんな感じで、適当な気持ちで入社したので、父が鍛える意味で私を工場へ入れたんだと思います。
高嶋さん
えっ? 配属があるなんて当時から相当大きい会社だったんですね。
細野さん
いやいや、そんなことないですよ。最初に入った工場は、障害者の人が半分以上のところでした。3年前に亡くなってしまったのですが、私の妹がダウン症で、先にその工場で働いていたんです。そこで一緒に働くことになって。
高嶋さん
うちの姉もダウン症なので、同じですね。
細野さん
そう、高嶋さんのご家族のお話し、テレビで拝見したことがあります。うちと同じだなって思っていました。実は、看板や包み紙などに使っている「銀座あけぼの」のロゴは、妹が書いたんですよ。
高嶋さん
えーすごい!妹さんは才能がおありだったんですね。お喋りが達者なうちの姉とは大違いです(笑)。ご一緒に働いていかがでしたか?
細野さん
配属先の工場は、妹が働けるように父が建てた小さな工場だったんです。初日に、何かお手伝いできるかなって簡単に思っていたのですが、そこで完全に打ちのめされました。みんな仕事が早くて、妹にも教えてもらっちゃって。それで自分の安易な考えが恥ずかしくなって、とにかく頑張らないとって思ってやったら、仕事が楽しくなってきたんです。
高嶋さん
じゃあ、細野さんは和菓子が作れるんですね!
細野さん
はい、ひと通りは修業しました。白衣着て、手袋して、毎日作っていました。その後も、店舗の店長や商品開発、営業などいろいろやりましたね。

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