銀ぶら百年

銀座復興を願って「はち巻岡田」へ

Ginza×銀ぶら百年 Vol.25

銀ぶら百年 ~イズミ式銀座街並細見~

銀座復興を願って「はち巻岡田」へ

2020.06.25

泉 麻人

 「はち巻岡田」という店の存在を知ったのは、80年代の中ごろだと思う。5年勤めた会社を辞めて、こういうフリーのライターになって、運よく仕事も順調に増えて、2冊、3冊と本も出た。そんな初期の著書の出版打ち上げかなにかで銀座に通じた編集者に連れてきてもらったのが最初だったはずだ。そのとき、戦前から多くの作家に親しまれた名店……といった知識があったかどうかは定かではないが、「はち巻」という変わった屋号と松屋の裏方の奥まった一角にひっそりと建つ立地環境は印象に残った。その後も2、3度立ち寄った経験はあるけれど、どれも先のような出版関係者との会食で、なじみの客というわけではない。料理の味に文句はなかったが、〝文人御用達の店”みたいなイメージに圧倒されて敷居をまたぐのを避けていたようなところがあった。
 とはいえ、銀座通りの1本東、あづま通りを歩いていて、イマイ画廊の脇道に、「はち巻岡田」の昔ながらの佇まいを目にとめるとホッとする。ウイルス流行のニュースがさかんな5月のある日、「銀座百点」のT編集長から「はち巻岡田さんがテイクアウトのおいしい折り詰めをつくった」と聞いて、僕はマスク装備をして久しぶりに出かけた。
ネットで買ったランナー用のマスクは、山中伸弥教授も提唱するBuff(バフ)
ネットで買ったランナー用のマスクは、
山中伸弥教授も提唱するBuff(バフ)
 昔ながらの佇まい、と書いたが、いまの場所に3階建ての店舗が建ったのは1968年(昭和43年)の2月というから、銀座通りから都電が消えたちょっとあと。戦後はその並びの松屋駐車場のあたりで営業していたが、1916年(大正5年)に最初の店が誕生したのは現在のコアビル脇。あんみつの「若松」がある小路の奥だった。震災のあとからだろうが、この小路には料理や酒の名店が並ぶようになって、日本橋(白木屋横)にならって「食傷新道(しょくしょうしんみち)」の俗称がついた。
 創業者、岡田庄次は深川の船大工の子として生まれ、食料品屋の番頭仕事で築地「新喜楽」に出入りしている折、妻となる「こう」(*正式な表記は、“こ”は「古」の変体がな)と知り合った。彼女も浅草の牛乳屋の娘というから、チャキチャキの江戸っ子夫婦といえる。ちなみに庄次は店を始める数年前、第1次大戦の日独戦争に志願出征したという奇特な経歴をもつ。西部戦線で闘ったのだろうが、日本兵は総勢200名ほどだったというから、相当の愛国主義者といっていいだろう。
 店の屋号は当初ただの「岡田」だったが、この男の姿からやがて「はち巻岡田」の呼び名が定着、岡本一平の絵看板となった。庄次の佇まいについて、店の常連でもあった作家、水上瀧太郎は、「むっつりした赤面の、額にやけに深い横皺のある、若いのか年とっているのかわからないはち巻のおやじ」(『銀座復興』)と表現し、随筆も書いた銀座生まれの画家・岸田劉生は「この鉢巻の岡田というのはそう古い事ではない様に思われるが、主人は感じのいゝたくましい若者で、江戸前の顔に角がり頭、それに新しい手拭で鉢巻をしている」(『新古細句銀座通』)と書いているが、その“はち巻の巻き方”に関しては、「銀座百点」(昭和40年8月刊)の鼎談(「銀座復興」物語)で円地文子の質問にこたえる格好で、こう夫人が名調子で解説している。
「昔、なんでござンすかね、はち巻をしてると、毛が落ちないというわけですね。いまみたいに、お料理の人が帽子かぶっていませんしね。なにしろうちのおやじさんときたら、お客様とカウンターで話をするのも嫌いでしてね、ツバキが落ちるからいやだってね。『おやじさん、おやじさん』っていっても、返事しないんです。それくらい頑固な人で、いつもはち巻を釘(くぎ)へかけていて、帽子みたいでしたね。それでいつとなく、はち巻の岡田、はち巻の岡田って……」
 江戸っ子らしい語り口がうまく拾われた文章なので、丸ごと引用することにしたが、はち巻は坊主頭のフロントできりりと団子状に結んだ“豆絞り”というスタイル。庄次とこう夫人が並んだ若いころの写真がいまも店内に飾られているが、写真を見る限り、水上がいうほど額の深いシワは目立たず、いかにもキップのいい昔の職人の雰囲気が伝わってくる(こういう顔の落語家が昔はいた……)。
キリリとはち巻をしめた初代・庄次さん
キリリとはち巻をしめた初代・庄次さん
 山口瞳、吉田健一……岡田について書かれた文章は数あるが、「はち巻岡田」の存在を広めるきっかけとなった作品が、先にもふれたが水上瀧太郎の『銀座復興』。これは、開店して7年目に関東大震災で店を焼失した岡田主人をモデルに焼け野原の銀座が復興していく様を描いた小説で、昭和6年から都(みやこ)新聞で連載された。人や事件はつくりもの……と作者自ら事後談で語っているが、〈復興の魁(さきがけ)は料理にあり、滋養第一の料理ははち巻にある〉なんて文句が小屋の葦簾(よしず)に揚げられていたのは事実だというし、先述したように岡田のオヤジの風貌描写もリアルだ。
 そして、語り部の役割をする牟田という青年が作者の水上だという。小説では三菱商事マンの設定になっているが、水上は本名・阿部章蔵として明治生命に勤務していた。彼の学生時代からの友人として山岸という銀座の装身具屋の2代目が登場するが、「山徳」いう屋号からして、帽子屋とは書かれていないが新橋側の8丁目にあった「大徳」を想像させる。
 ところで、この『銀座復興』は終戦直後の昭和20年10月、久保田万太郎の脚色で時代設定を空襲焼跡にあらためて、6代目菊五郎の主演によって帝劇で上演された。先の昭和40年の鼎談(こう夫人、円地文子、戸板康二、池田弥三郎)では、まずこちらの舞台の話からやりとりされているから、この菊五郎の芝居によって、「はち巻岡田」はいっそう知られるようになったのかもしれない。ちなみに、芝居がヒットしていたころ、菊五郎とばったり銀座街頭で会ったこうに、「おかみさん、いつまで商売しないんだよ。おれの芝居、ウソになっちゃうじゃないか。」と彼から励まされたのが3丁目で店を再スタートするきっかけになった、という逸話がある。
 店を再開した昭和23年、庄次は病いに倒れて暮れも近づくころに58歳で世を去った。それからしばらく、名物おかみと2代目の千代造の時代へ。
「慶大生二代目千代蔵氏『卒業したら専心包丁をとります』。『頼母しい、後援しよう』と常連一致して組織したのが岡田会。」
 と、昭和26年刊行の『東京風物名物誌』(岩動景爾・著)に2代目デビューのころのことが書かれている。実際「岡田会」というのは水上瀧太郎の呼びかけですでに昭和8年に発足されたファン会らしいが、先代の急死後、まだ若い2代目を支えるべく、おもに慶應OBを中心に会の結束は一段と強まった。そのプロデューサー的役割を果たしたのが先代夫人であり戦前からの常連、千代造の恩師でもあった小泉信三が応援団の中心となった。
 2代目は寡黙な人だったようで、山口瞳のエッセーなどによく登場するのはだいたい女将のこうさんの方だが、「銀座百点」の昭和36年7月号に掲載された、「包丁新時代」という鼎談では、相手が金田中の岡副昭吾氏ら、なれ親しんだ料理屋の若旦那連中ということもあってか、気さくな発言をしている。
「私はあまり好きじゃなかったですね。魚がね、生ま臭いでしょう。子供の頃、河岸へ連れて行かれたりすると、生ま臭いのがいやでね」
「私はいちばん苦手は、親父をもち出されることですね。親父はこうじゃなかったナンていわれるのが一番ヨワイな」
「私はまァ、おかげで母がいますから。母がいないと……」
 写真の千代造はなかなかの2枚目だし、こういう発言を読むと、いかにも2枚目のお坊ちゃん主人という感じだ。
 そして、3代目の幸造さんは僕とはほぼ同世代、今回初めて知ったのだが慶應大学で3年後輩にあたる。
「小、中、高と暁星に通っていたこともありまして、文学部の仏文に入ったんですよ。ただフランス文学より山岸先生の哲学的な社会学の講義にハマっちゃいまして…」
 この人は山岸健という旅や都市、風景などをトポスなんて言葉を使って説く名物教授だろう。
 学生時代、まるで料理に興味をもたなかったのに、卒業間際に店を継ぐことを衝動的に決意して、新橋(演舞場北方)の料亭「松山」で4年間修業、2代目の下について店に入った。2012年に2代目が死去、実質的な3代目主人となって、4年前の2016年、「はち巻岡田」は創業百年を迎えた。
「慶應の学生時代、釣りのサークルに入っていたんですよ。だから、松山さんで修業している当初、釣りやってたのに魚ひとつサバけないのか、ってよくからかわれました。」
 しかし、この辺は「魚が生ま臭くて苦手だった」という2代目よりまし……かもしれない。

「実は、ずっと独身できたんで。この店もいとこが手伝ってくれてるけど、1人で仕込みからすべてやってるんですよ」
新調したのれんの前で、三代目の幸造さん
新調したのれんの前で、三代目の幸造さん
 幸造主人が1人でつくったという折り詰め(はち巻岡田の酒肴セット)はiPadほどのサイズの重箱に1、2人前見当のオカズが詰まっている。鰆の照り焼き、鱒の塩焼き、わかさぎの唐揚げ、車海老煮、里芋や筍の炊き合わせ……味わった感想を先にいうと、そもそも評判の高い玉子焼がとりわけ舌の記憶に残った(久保田万太郎の大好物だったという)。
 そんな御主人お手製の折り詰めをじきじきにもらい受けて、銀座から丸ノ内線で杉並方面の自宅へ向かう。そういえば、山口瞳のエッセーにこんな一節があった。
 「京橋にある会社から銀座方面に歩いていって『岡田』でちょっと飲んで地下鉄に乗って荻窪へ出て中央線で家に帰るというのが、まことに自然であり気持ちのいいコースである」。
『銀座復興』の山岸も荻窪に新居を構えたという設定だった。わが家は荻窪よりちょいと手前だが、なんとなく「はち巻岡田」の客に似合った方角、と思いながらいい気分になった。
泉さんが舌鼓を打った酒肴セットは5月中で終了、6月からは鮎をメインにした新たな持ち帰り料理「夏の香りセット」を販売!※前日までの予約制、税込5000円。問い合わせは03-3561-0357(はち巻岡田))
泉さんが舌鼓を打った酒肴セットは5月中で終了、
6月からは鮎をメインにした新たな持ち帰り料理「夏の香りセット」を販売!
※前日までの予約制、税込5000円。問い合わせは03-3561-0357(はち巻岡田))

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