銀ぶら百年

三愛のビルを建てた男

Ginza×銀ぶら百年 Vol.24

銀ぶら百年 ~イズミ式銀座街並細見~

三愛のビルを建てた男

2020.03.25

泉 麻人

 銀座4丁目の交差点には「和光」をはじめとしてシンボリックな建物が集まっているけれど、北西側の角に建つ「三愛」の円筒形のビルも銀座風景を象徴する物件、といっていいだろう。昭和7年(1932)に竣工した和光(服部時計店)のビル(2代目)ほど古くはないものの、三愛ドリームセンターと呼ばれるこの建物が誕生したのはオリンピックより1年前の昭和38年(1963)の年頭だから、もう半世紀以上の時が経つのだ。
 当初、上層部のネオン看板は三菱のダイヤマークだったが、いまやリコー(RICOH)のロゴがすっかり定着した。そう、カメラや複写機器で知られるリコーとファッションの三愛の創業者が同じだということを知る人は意外と少ない(僕も関係を知ったのは割と最近のことだ)。
初代のネオンはダイヤマーク
初代のネオンはダイヤマーク
 さらに、三愛やリコーを立ちあげた市村清という人物、これだけにとどまらず、ユニークな発想とエネルギーでいくつもの会社を成功させた才人なのだ。
創業者の市村清氏
創業者の市村清氏
 実は、友人の縁で先日、市村氏の義妹にあたるご婦人(市村和子さん)と対面する機会を得た。92歳になる彼女が暮らすのは、市村清の住まいがあった大田区の北馬込。今回はここでうかがったお話と三愛新書から刊行されている市村清の評伝(『茨と虹と』市村清の生涯 尾崎芳雄著)をもとに、あの円筒形の三愛ドリームセンターを建てた男の人物像に迫りたい。
 市村清は明治33年、佐賀県東部の農村集落に生まれた。筑後川流域のハス沼の多い土地で、子分を引きつれて泥遊びをするガキ大将だったというが、読書好きで勉強もよくできたとはいえ貧しい家庭環境のせいもあって、14歳のときに中学を中退。この年に野菜売りを始め、16歳で共栄貯金銀行に就職、19歳で本店に勤務。働きながら中央大学の夜間法科で学んだ。
 この銀行が合弁会社をつくって進出した中国の上海で、同郷(佐賀)の医者の娘・幸恵をめとり、彼女は仕事面においても清の重要なパートナーとなっていく。が、銀行は昭和初めの金融恐慌であえなく倒産、清は熊本で富国生命の保険外交員の仕事を始めた。この職場が後年のリコー。三愛グループの意外な“とば口”となるのだ。
 富国生命の佐賀代理店を任されていた吉村商会という店は、古い醤油屋なども兼業していた地元の資産家で、主人の妹が黒田チカという理化学研究所の研究員(日本初の女性理学博士としても知られた)だった縁もあって、理研感光紙の販売所もやっていた。
 営業能力を認められた市村は、この理研感光紙の販売の事業を勧められ、結局“商会”ごと買い取って<理研感光紙九州総代理店>の看板を掲げた店の主となった。これが昭和4年、29歳目前のころだというからスゴい。
 理研の名は、いまも広く知られている(ノーベル賞の科学者や数年前の“STAP細胞”のときにも世間を騒がせた)けれど、タカジアスターゼの発明者として理科の教科書にも載っている高峰譲吉が中心となって大正6年に発足。ビタミンAの抽出、販売にも力を入れてたが、昭和初めの代表的な工業製品の一つが印刷に使う陽画感光紙だった。とくに市村が築いた九州の代理店は北九州工業地帯の工場を顧客にしておおいに発展、当時の理研の所長・大河内正敏に目をかけられた市村は昭和8年春、東京本社へ呼ばれる。本社の感光紙部長の任に就くのだが、まわりは帝大出のお高いインテリ社員ばかり。九州から出てきた野猿の清は露骨にソッポを向かれる。そこで、ウップン晴らしに繰り出したのが銀座のカフェー。市村が東京にきたのとほぼ同じころに刊行された銀座風俗の案内『銀座細見』(安藤更生・著)にも好評されている交詢社ビル地下の「サロン春」に通い詰めた話が評伝にも書かれている。
「翌日も正午をまわると“サロン春”へ出かけて行った。十二時半から“サロン春”へ、そして夕方帰宅というのが彼の日課になった。女給たちもすっかり顔なじみになりチヤホヤしてくれ、ビールの手もあがると、外はものうい春の陽気だ、帰宅の時間もだんだんおそくなる。とうとう三ヵ月もの間そんな生活が続いてしまった」
 評伝に記述されている最初の銀座エピソードがこの“サロン春”の話だから、これが市村の銀座原風景、とも推理できる。
 昭和11年、感光紙部は理研感光紙株式会社として独立し、市村がその経営を担うことになる。これが現リコーの始まりである。

 ところで、冒頭でふれた北馬込に市村清夫妻がやってきた(それ以前は牛込矢来町に住んでいた)のもちょうどこの時期(昭和12年)のことで、当時は雑木林や田畑が目につく城南の郊外らしい土地だった。この辺は大正から昭和初めにかけて作家や画家が住居やアトリエを構えた馬込文士村の北端にあたる地域だが、市村邸のすぐ近くには文士村に住んだ版画家・川瀬巴水が描いた“三本松”のモデルとなった松の高木が存在した。いまもバス停留所に三本松の名が残されているが、この3本の名松、B29の空襲の目印にされるのを警戒して戦時中に切り倒されたというから、清はぎりぎりで眺めた可能性がある。
 そう、和子さんが暮らす現在の家の庭にも“おマツさん”と称される立派な松が1本植わっている。
泉さんと市村和子さん
泉さんと市村和子さん
 ここに市村が居を構えたのは、眼下の谷地にリコーのカメラ部門の前身にあたる旭光学の工場が建っていた事情もあるようだ。環七通りをはさんで、いまも周辺にはリコー本社ビルをはじめ、グループの関連施設が集まってちょっとした“リコー村”を形成している。
 ところで、この旭光学が当時発売していたカメラの名は「オリンピック」といったそうだが、これは時期的にみて、戦争で返上された昭和15年の東京オリンピックにあやかったネーミングなのではないだろうか……。
 さて、「三愛」の出発は銀座にもまだ焼け跡の廃屋が目につく昭和21年8月、市村は以前からサービス業に興味を抱いていたのだ。安田銀行の知人のつてで、狭いながらも尾張町(4丁目)交差点角という一等地を手に入れて、2階建ての三愛をオープンさせる。最初からファッションの店だったわけではなく、“生産直結の店”とキャッチフレーズを掲げて、食料品や文房具、生活雑貨を売る、いってみれば“スーパー”の先駆けのような店だった。
 女性向けのオシャレ店に衣替えしたのは昭和20年代後半のことだというが、そのヒントとなったのが、清がデパートのトイレ際で耳にした女性たちのおしゃべりだった……という。
「ははあ、女という者はトイレなんかで秘密のことを何でも話し合うんだなと思って興味をひかれた。(中略)銀行やトイレットは無数にあるし、若い職業婦人はどこにでもいる。トイレットの中の会話を綿密に調べたら現代女性の生活や考え方がよくわかるのではないか。」(『茨と虹と』三愛新書)
 そこで女子学生アルバイトを雇い、銀行やデパートのトイレの会話を調査させた結果、終戦から数年経って、女性たちが洋服や化粧品……オシャレに興味を持っていると知り、三愛の方向性が固まった。そして、品揃えや店内装飾には、妻・幸恵の意見もおおいに反映されたという。
 三愛の成功の流れもあったのか、以前ここで取りあげた西銀座デパートの初代社長(昭和33年)を任されたころ、昭和22年のことだが、明治神宮から依頼されて廃屋化していた外苑の憲法記念館を結婚式場の明治記念館にリニューアルとしたのも市村清なのだ。
 そして、昭和38年1月、2階屋の銀座三愛は9階建ての円筒ビル・三愛ドリームセンターに改築されてオープンする。1月13日の夜更けに催された派手な開店セレモニーは、ニュース映画や新聞記事でも取りあげられるほど、話題になった。
三愛ドリームセンターの工事風景
三愛ドリームセンターの工事風景
「ちょうど午前零時から“点灯式”が始まった。“君が代”の吹奏が終わると、突如切り落とされた幕の中からフランキー堺の叩くドラムの響きが寒風をゆるがす。そのとき市村が入れた最初のスイッチで一階にパッと灯がともった。美しく着飾ったモデル嬢を数人のせたゴンドラが、ドラムのリズムに合わせて上がりはじめると、二階、三階、四階と順々に灯がともって、やがて銀座の夜空に四十八メートルの光の柱を浮きあがらせた。」(『茨と虹と』)
 へー、こんなことが、深夜の4丁目交差点で繰り広げられたのだ。店前の歩道に夜店が軒を並べる光景も写真に残されている。
真夜中のオープニングパーティー
真夜中のオープニングパーティー
 ところで、いま三愛の店舗は撤退しており、この2月末まではビルの8・9階でリコーの 歴代のカメラ展示や最新のカメラ展示・販売がされていた(現在は、リコーで新規出店を準備中)。
ショーケースに、大ヒットしたリコーフレックスなどと並んで、僕が初めて愛用した「リコーオートハーフE」が置かれていたのが懐かしかった。このカメラを買ってもらったのは小学6年生の春。当時学校の宿題でつけていた5月15日の日記にこのことが書かれているが、昭和43年の話である。
 市村清が他界したのはこの年の暮れ。そう、僕が三愛の存在を知ったのも、翌年の中1のころから聴き始めた夜ふけのラジオだった。
『ワゴンでデイト』というニッポン放送の番組で、これが三愛の提供だった。当時ビル内にあったサテライトスタジオからの公開番組で、女声コーラスによるこんなテーマソングが流れる。
♪恋が芽生えた街で 明日のあなたと会いましょ~
 三愛のビルを眺めると、いまもそのテーマソングがぼんやりと思い浮かぶ。

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