銀ぶら百年

聖なる気分で教文館

Ginza×銀ぶら百年 Vol.19

銀ぶら百年 ~イズミ式銀座街並細見~

聖なる気分で教文館

2018.12.25

泉 麻人

 銀座の目抜き通り(銀座通り)に建っている、戦前からのビルというと、もはや「和光」くらいなのではないかなぁ……と、ごく最近まで思っていたのだが、その数軒並び、同じ4丁目の北側角に建つ「教文館(と併存する)聖書館」のビルも昭和8年(1933年)竣工のクラシックなビルヂングなのだ。外壁が改修されているので、一見わかりにくいけれど、1階の雑誌売場の通路を通りぬけて西側のエレベーターホールのほうから階段を上っていくと、手すりや窓枠などに昭和初めのビルらしい趣きが感じられる(取材時に案内してもらったが、地階へ行く階段脇の壁に古めかしい消火ホースの収納箱が存在する)。
クラシックなレターシュート
クラシックなレターシュート
 いつか、この教文館という書店の歴史を取材したい、と願っていたのだが、このたび現社長の渡部満氏じきじきにお話をうかがえることになった。
階段室がそのままエントランスに
階段室がそのままエントランスに
 7階の編集室の奥の広々とした会議室に導かれる。キリスト教系の書店とは知っていたから、十字架の聖壇などが置かれていないか……と見渡したが、絵画が飾られているだけでそういうものは見当たらない。が、取材を始めようというときに、キン・コン・カーンと鐘の音が聞こえてきた。これも一瞬、館内の聖堂のようなスペースで鳴らしているのか……と想像したら、「いやいや、和光の時計塔の3時のチャイムですよ」。
 渡部社長に笑われた。
 さて、教文館の立ちあがりは、明治6年のキリスト教禁教の解禁に伴うメソジスト教会の布教活動に始まる。
「1885年、明治18年に築地居留地11番地にあった教会でね、トラクトや聖書の販売をする出版活動を本格的に始めようという決議がまとまりまして。9月9日のことですが、これが教文館誕生の日といっていいでしょう」この築地の教会は教文館横の道を西進した外堀通り角にある銀座教会の原点である。
 ちなみにトラクトとは、教会の主義主張などを簡潔にまとめた宣伝リーフレットのようなもの。当時、メソジストはその頭の音から日本では‶ミー″と呼ばれ〝美以(美)″の漢字があてられた。関東では横浜に店舗があったが、やがて銀座に事務所および店舗が移設される。まずは、当時竹川町と呼ばれた7丁目、そして明治26年に3丁目の現サヱグサビル(アップルストアの所)の場所へ、その2年後に4丁目ブロックへ移り、和光寄りのほうから微妙に位置を変えて、いまの北側角地に定着したのは明治39年、1906年のことだった。
「煉瓦作り、四階建ての教文館ビルは華やかな当時の銀座の中でも一きわ目をひく建物であった。(中略)当時の職員は二十名位いで、前掛角帯姿で店頭に頑張り、洋書、伝道文書を販売していた――」
 と、渡部社長自らまとめた社史冊子(『教文館ものがたり 明治・大正・昭和・平成の130年』)にある。そして、大正のころから始めたユニークな販売活動として、ビクターレコードの代理店になった旨が記されている。さらに、ビジネスとして具体化はしなかったものの、あの近江兄弟社のメンソレータムの販売は当初教文館に持ちこまれたらしい。なるほど、あのビルには割と最近までビクターレコードの大きな屋上看板が掲示されていたし、昭和30年代ごろの外景写真にはメンソレータムの広告看板も写りこんでいるから、縁は長く続いていたのだろう。
 大正時代のエピソードとしては、数年前のNHKの‶朝ドラ″でも扱われた児童文学作家・村岡花子の入社がある。東洋英和女学院で学んだ彼女は大正6年、初めての著書『爐邉』を教文館の前身でもある日本基督教興文協会から出版、およそ2年後、当協会が刊行する子ども向けの雑誌『小光子』の編集部に勤務する。相前後して、教文館裏方に隣接する印刷所・福音印刷に勤める村岡儆三(父親が経営者)と知り合って結婚した。
 花子が‶銀座の恋″を成就させて4年後、大正12年の関東大震災によって、この4階建ての美しき初代教文館ビルは焼失してしまうが、同年の暮れには2階建てバラックで店は再開、早くもクリスマスセールが催されたという。
 この震災後バラックの2階に入った、銀座史に欠かせない名店がある。昭和前期の風俗小説や随筆によくその名を見る「富士アイス」だ。
 富士アイスは、昭和8年に誕生した現ビルの1階と地階に入って引き続き営業したが、手元にある銀座古建築の写真集『震災復興<大銀座>の街並みから』(銀座文化史学会)の中に、1階から大理石仕立てのらせん階段で地階へ下っていく、オシャレな店内のスナップが載っている。
 僕が「富士アイス」という、おいしそうな名を初見したのは永井荷風の日記随筆『断腸亭日乗』で、とりわけ目につくようになるのは昭和12年あたりから。荷風は地階が気に入っていたようだ。

 日の暮るるを待ち銀座に飰し富士地下室に憩ふ。(4月30日)
 夜不二地下にて銀座の諸子に会ひ、烏森稲荷の縁日を歩む。(5月11日)
 夜銀座ふじあいすに夕餉を食す。(9月13日)

‶富士″‶不二″‶ふじ″と字が統一されていないけれど、荷風はよくこういう字違いの遊びをするので誤りではない。また‶アイス″の店名とはいえ、文章を読むと、荷風はけっこう食事でこの店を使っていたようだ。
 先の冊子(『教文館ものがたり』)とは別に渡部氏からいただいた‶創業130年記念″の冊子『日本近代建築の父 アントニン・レーモンドを知っていますか』の中に、富士アイスのメニューの写真が小さく掲載されていたので、ルーペで拡大して目を凝らすと、ハンバーグステーキ、グリルチキン、カキフライ、コンビネーションサラダ……およそ50品目の料理と、さらに‶ソーダファウンテン″の項目でドリンクやアイスクリームがずらずら並んでいるから、かなり本格派のレストランだった、と見ていいだろう。
 ところで、この冊子のタイトルにあるように、昭和8年の新ビルを設計したのは軽井沢の「聖パウロカトリック教会」などの教会建築の名匠・レーモンド(意外な物件では、数年前まであった64年竣工の最後の松坂屋銀座店の改築もこの人)だが、当初シンボリックに聳え建っていた尖塔(銀座通り側と裏の聖書館ビル屋上にも存在)は、屋上広告板の設置で昭和30年代初めには姿を消した。そう、広告というと、この取材を行った会議室の一角に昭和39年の東京オリンピックのころの外景写真をもとに都立大崎高校の学生たちが制作した教文館ビルのミニチュア模型が飾られているのだが、ビクターレコードの屋上広告だけでなく、和光側の外壁にも「前田のクラッカー」の広告がデカデカと掲げられている。「あたり前田のクラッカー」(「てなもんや三度笠」の藤田まこと)のブームの時代を思わせるが、そうか……こちら側の外壁の広告が人の目にとまるほど、並びの建物が低かった、ということなのだ。
 昭和の時代が終わって、はや平成時代も30年の幕を閉じようとしているが、そんな平成の初め、バブル期ピークのころの教文館で思い出されてくるのが店頭の雑誌販売。とくに<銀座特集>をよく組んでいた、ときの女性情報誌『Hanako』が平積みされていた光景が思い浮かぶ。創刊編集長の椎根和氏が著した『銀座Hanako物語』(マガジンハウス)に、店頭販売に熱心だった当時の社長・中村義治氏のことがユーモラスに描写されている。

 「店の前の舗道に平台(屋台)を持ちだして、その上に『Hanako』の最新号とバックナンバーを山積みにし、自ら声をからして売りはじめたのだ。(中略)中村の屋台作戦は、ものすごい販売数字を残した。第五五号(一九八九年七月六日)の「どうする!? 銀座大情報」特集号は、銀座の屋台一カ所だけで、三万部以上を売り上げた。一店舗で三万冊の週刊誌が売れたというのはギネスブックに記されるべき数字だろう。創刊号から一五〇号まで――つまり三年間――の『Hanako』の一号あたりの平均売上部数は、教文館だけで二四五一冊だった。」

 30年後のいま思うと、まさに夢のような話だが、この名物社長・中村氏が創設したのが現在の看板フロアでもある6階の児童書売場「ナルニア国」と4階のショップ「エインカレム」。
 映画のヒットによって、2000年代以降一段とポピュラーになったナルニア国、このスペースに入っていくと、僕が小学生の時代に岩波書店から発売されたナルニア国物語の初作『ライオンと魔女』(瀬田貞二・訳)をはじめ、『ドリトル先生』のシリーズ、福音館書店の『いやいやえん』や『エルマーのぼうけん』……といったおなじみの児童書が、50年前とほぼ同じ装丁、判型で書棚に並んでいる。眺めながら、あのころの小学校の図書室にトリップした気分になった。
サイン本は早いもの勝ちです!
サイン本は早いもの勝ちです!
 そして、4階の「エインカレム」にはこの季節、店頭からクリスマスカードがにぎやかに陳列されている。クラシックな雰囲気のエレベーターホールからこの店に入っていく感じがとてもいい。ひと昔前のトラディショナルな銀座のクリスマス風景が回想される。雪が降る寒い日なんかに、ここでクリスマスカードを探したいね。
クリスマスツリーの前で渡部社長と
クリスマスツリーの前で渡部社長と

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