元禄時代は大いににぎわった銀座ですが、文化文政の頃にはいったん廃れ、幕末にはかなり荒れた様子になっていました。
そんな銀座は、明治5年(1872)の大火を機に、明治政府によって西欧風の煉瓦街に生まれ変わったのです。設計したのはイギリス人建築家トーマス・ジェームス・ウォートルス。
計画は、(1)道路幅の拡大を中心とする街路整備計画、(2)煉瓦を主材料とする不燃性洋風家屋の建築、の二本柱から成り、建設のために当時の政府予算の約27分の一という巨額の支出が投じられました。
この結果、銀座通りの道路幅はそれまでの倍以上である十五間(27メートル)に広げられ、車道と歩道に分離されました。歩道部分は煉瓦敷き。ガス灯がともされ、街路樹として桜、松、楓が植えられました。さらに、それまでの街区スケールをもとに八間、五間という道路が整えられ、きれいな碁盤の目に整えられました。これが現在の銀座の街区の基礎となっていることは言うまでもありません。
また、煉瓦家屋はジョージアン様式というスタイルで建設されてゆきました。二階に張り出したバルコニーを円い列柱が支え、バルコニーの下には歩廊があるというもので、1丁目から順につくられていきました。できあがった煉瓦家屋は民間に払い下げられました。当時の建物価格としては大変な高額だったものの、煉瓦の質は劣悪で湿気がひどく、商品がすぐにだめになるような事態が頻出しました。そのため、できた当初は空き家だらけの状態だったようです。
京橋に建つ、銀座煉瓦の碑とガス灯レプリカ
最先端のモノと商人の集まる町
横浜と新橋をつなぐ、日本初の鉄道ができたのも明治5年のこと。新橋ステーションの駅前商店街ともいえる銀座には、西欧からの輸入商品や新しい商品を扱う商人たちが次々と店をひらきました。洋食屋、パン屋、鞄屋、牛鍋屋、時計商、西洋家具店、洋服店などなど。これら進取の気性に富んだ商人たちは店先にショーウィンドウを設け、江戸以前の座売りと違って、客が履物をはいたまま店内に気楽に入って商品を眺めることができるよう工夫をし、新しい商売の方法を切り開いていきました。
こうして、銀座は西欧風の街並みそのものを眺めて楽しんだり、ウィンドウショッピングを楽しむ街、すなわち、のちに「銀ぶら」と呼ばれる街歩きができる街となっていったのです。
西洋雑貨店 伊勢屋(銀座2丁目)
時計、眼鏡、測量器械 玉屋(銀座3丁目)
西洋酒問屋 清水谷商会(尾張町1丁目)
情報の発信基地
もうひとつの銀座の特徴は、新聞社の進出です。西洋の事物が集まるハイカラな街に、新しいものに敏感なジャーナリストたちが集まってきました。新橋ステーションは地方への物流の基地でもありました。一時は尾張町交差点(銀座四丁目交差点)のすべてが新聞社であった時代もあったほどです。新聞社に続いて雑誌社、関連する印刷所、広告会社などが進出し、銀座は一大情報発信基地でもあったのです。
「東京名所銀座通朝野新聞社盛大之眞図」広重(三代) 明治12年 銀座4丁目和光のところにあった朝野新聞社
銀ぶらのはじまり
また明治も後半になると、勸工場ができてきます。勸工場とは今で言う百貨店、あるいはテナント商業ビルのようなもの。一間半ほどの通路の両側に、おもちゃ、絵草紙、文房具等々さまざまな雑貨を売る小さな店が並び、なだらかな通路を螺旋状に登って行くといつのまにか建物最上階に到達し、そのままなだらかに降りて来る、という構造でできていました。明治35年(1902)頃には銀座通りに7軒の勸工場がありました。
勧工場・博品館
こうして銀座には多くの人が集まるようになっていったのですが、ショッピングだけではなく、銀座を歩くこと自体をかっこいいと思う人たち、銀座で人と会うことが時代の最先端を行っていると感じる人たちが現れてきます。銀座をぶらぶら歩き回る「銀ぶら」という言葉が出てきたのは大正4、5年(1915~6)頃とのことですが、銀ぶらの語源にはいくつかの説があります。
「銀座をぶらぶら歩く」はもちろんのこと、当時、銀座にいるごろつきや不良といったあまり良くない意味で「銀のブラ」という言葉もあってそれが転じて、特別な目的もなく銀座を散歩することを「銀ぶら」と言うようになった、とか、慶応義塾の学生が当時めずらしいものだったブラジル産のコーヒーを飲みに行くことを「銀座でブラジルコーヒー」略して「銀ぶら」というようになった、とか。
いずれにしても「銀ぶら」という言葉は、のちに広辞苑に掲載されるほど一般的な言葉となって定着し、今も銀座の魅力を語るに欠かせない言葉となっているのです。
カフェープランタン
あこがれの銀座、最先端の銀座、文化人の集う特別な銀座というイメージを象徴するのがカフェープランタンの開業でした。明治44年(1911)、洋行帰りの画家・松山省三は、パリのカフェーの雰囲気を再現しようとしました。命名者は小山内薫、内装は若き日の岸田劉生らが手伝いました。カフェーというものを知らない人が多いため、維持会員を募りましたがそのメンバーは、永井荷風、森鴎外をはじめとするそうそうたる作家たち、それに新橋、赤坂のきれいどころも会員となりました。横浜のイタリア人の店でブレンドしたコーヒー、酒はウィスキーやブランデーだけでなく各種リキュールをそろえ、洋行体験のある文士や画家が集まって社交サロンとなりにぎわいました。それまで日本には、気楽なサロンとして談論風発たたかわせたり、人と待ち合わせに使ったり、ちょっと立ち寄ってお茶を飲んだりできるような場所はありませんでした。
続いてカフェーパウリスタ、カフェーライオン、タイガー等が次々とできました。これらの店は、それぞれの個性をもちながらもいずれもあこがれの西洋の香りをただよわせ、ここに身を置くだけでハイカラな気分を味あわせてくれるとともに、文化サロン的な役割を果たしたのです。そしてそこに集う有名人たちの一挙手一投足があこがれの対象となり、噂となって流れ、銀座のイメージづくりに大きく貢献したことは言うまでもありません。
大正13年に開業したカフェータイガーが翌年拡張工事をしたときの記念絵葉書
銀座通連合会の発足
大正期に入る頃には、銀座の煉瓦街は住民の工夫によって見事に日本風に改造され、住みこなされていました。内部には畳を敷いて和風の生活を営むばかりでなく、ファサードにはのれんをかけ、増築し、すっかり和風にしてしまう建物が多かったのです。
街路樹は当初の桜、松、楓から柳に変わりました。柳は銀座の街路樹として定着し、銀座といえば柳、というほどになっていました。ところが東京市は銀座通りの道路改修計画をすすめ、車道を拡張し、柳を撤去してイチョウに植え替え、歩道をコンクリート舗装にするという計画を発表しました。
明治35年頃の銀座通り 煉瓦街は和風建築に改造されてしまっている
この計画、とくに柳の撤去に対して、地元住民は強く反対を訴え、それをきっかけとして大正8年(1919)に、銀座通り商店の連合団体である「京新聯合会」がつくられました。柳の撤去は市議会でも問題になったほどだったようですが、後藤新平市長は計画の断行に踏み切り、大正10年(1921)に柳はすべて抜き去られました。
のちに関東大震災後、再び柳の復活運動がおこり、昭和7年(1932)に柳は銀座の街路樹としてよみがえるのです。
京新連合会は、その後銀座通連合会と名を変え、戦後は晴海通り沿道の商店も加わり、銀座のにぎわいと安心安全を保つための活動を、現在も続けています。
西洋雑貨店 伊勢屋(銀座2丁目)
時計、眼鏡、測量器械 玉屋(銀座3丁目)
西洋酒問屋 清水谷商会(尾張町1丁目)
「東京名所銀座通朝野新聞社盛大之眞図」広重(三代)
明治12年 銀座4丁目和光のところにあった朝野新聞社
大正13年に開業したカフェータイガーが翌年拡張工事をしたときの記念絵葉書
明治35年頃の銀座通り 煉瓦街は和風建築に改造されてしまっている