GINZA CONNECTIVE (高嶋ちさ子対談シリーズ)

水原 康晴×高嶋 ちさ子

GINZA CONNECTIVE VOL.2

水原 康晴×高嶋 ちさ子

2011.11.01

バイオリニストの高嶋ちさ子さんと、銀座人たちの対談シリーズ。高嶋さんにとって銀座は、仕事でもプライベートでも思い入れのある街。そんな高嶋さんがゲストの方に、銀座のあれこれをディープに聞いていただきます。今回のゲストは、「清月堂本店」4代目で、代表取締役社長を務める水原康晴さんです。

創業104年、4代続く老舗の和菓子店

高嶋さん
私、甘いものはなんでも好きなんです。和菓子は洋菓子にはない食感がいいですよね。
水原さん
和菓子屋はよく利用されますか?
高嶋さん
はい。40歳を過ぎてから、手土産で使うようになりました。和菓子を持って行くと、できる女風に見えますよね。「私の好きなものなんですよ」なんて言って渡せば点数がアップする(笑)。
水原さん
やはり季節の和菓子などですか。
高嶋さん
私は、その季節の和菓子というのを知らなくて、以前何も気にせず持って行っていたら、母に、あんたバカじゃないのって言われたりして(笑)。大人の方は詳しいので、どんな方に差し上げるならどれがいいかなど、アドバイスいただいたりしています。ところで、こちらは明治40年創業なんですね。ということは今年で何年目でしょうか?
水原さん
104年です。創業者は京都風の和菓子を勉強したので、こちらの和菓子は、京都風の色合いを感じられるものが多いんですよ。私は4代目なので、このまわりの歴史は父から聞きました。
高嶋さん
創業からの定番のお菓子はありますか?
水原さん
同じものはありませんが、初代は上生菓子、2代目は半生菓子を得意とし、3代目はおとし文という人気商品を考案しました。4代目として、そろそろ商品を考えなくてはと思っています。

料亭や花柳界に支えられ、成長しました。

高嶋さん
お客様もやはり銀座らしい方がいらっしゃるんでしょうか?
水原さん
料亭とお茶の先生方はいらっしゃいますね。昔は、料亭に有名なお菓子屋さんが入っていたんです。うちの初代は、築地に今もある新喜楽のおかみさんにまじめに仕事していたのを認められ、いろんな上客を紹介していただいて、商売が順調に行ったと聞いています。
高嶋さん
茶道のお客様も多い?
水原さん
お茶の先生は、いちばん厳しいお客様ですね。大きなお茶会では、基本的にオリジナルの和菓子ではないとだめなんです。お茶会のたびに、10種類ぐらい作って選んでいただく。高嶋さんはお茶をされますか?
高嶋さん
道具は持っているんですが、じっとしていられないんでダメなんですよ(笑)。
創業当時からこちらの場所だったんですか?
水原さん
はい。ここは当時、井戸水が出たんです。あんこを作るのに水をいっぱい使うので、この場所にしたと聞いています。周りには料亭も多く、お茶席で使うお菓子を販売していました。
高嶋さん
どういった場所柄だったんでしょうか。
水原さん
今は銀座7丁目という住所ですが、創業当時は、京橋区木挽町という住所でした。江戸城を築城するための丸太を切る木挽き職人がこのあたりにたくさん住んでいたそうです。オリンピック前は運河がたくさんあり、橋もたくさんありました。橋には月が付きものということで、創業者が「清月堂」という名前をつけたそうです。
高嶋さん
素敵ですね。花柳界も栄えていたとか?
水原さん
はい。関東大震災前は、このあたりに官庁がたくさんあったんです。そのため、明治の華やかな時代の中、新橋花柳界も非常に栄えていたらしいです。今、このあたりに料亭があるのはその名残だと思います。
高嶋さん
今はどんな町ですか?
水原さん
このあたりは、少しマンションが増えましたね。昔はこの店も木造3階建てで、私たちもここに暮らしていました。昭和通りを渡ると、やっと銀座で人が住む通りになってきていますね。

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