Ginza×銀ぶら百年 Vol.09
銀ぶら百年 ~イズミ式銀座街並細見~
銀座の煎餅屋ここにあり
並木通りは好みの散歩道だ。前に「三笠会館」を取りあげたときに、晴海通りから南側の街並みを描写したけれど、北側もいい。まずは入り口の「テイジンメンズショップ」。いわゆる“アイビー族”の拠点ともなったこの店、いまのビル建てになったのは東京オリンピックがあった1964年(開業は60年)と聞くが、僕が学校帰りに銀座に寄り道するようになった中学生のころからその佇まいは変わっていない。そして、その隣にはさらにぐっと歴史の深い「松﨑煎餅」の店がある。
この店の存在を知ったのは、テイメンに置かれたVANのシャツなんかにちょっと興味を持ちはじめた中学生の時代だった、と思う。当時、並木通りの方へ曲がることはあまりなかったのだが、松﨑煎餅の斜す向かいの「嶋屋紙店」の水野クンは慶應の中等部の同級生だったので、銀座にくるとたまに立ち寄っていた。そんなときに松﨑煎餅の店を見て、へーっ銀座にもおせんべい屋があるのだ……と思った記憶がうっすらと残る。
とはいえ、学生時代になじみにしていたわけではなく、最初にちゃんと来店したのは80年代の中ごろ、オシャレ少女雑誌の「OLIVE」で、おやつテーマのエッセイを書いていたころ、取材で訪れて喫茶室で抹茶と煎餅をいただいたおぼえがある。
以前一度、銀座の会で顔を合わせたことのある副社長の松﨑宗平氏から、お店の歴史をうかがうことになった。松のロゴマークをあしらった赤紫の看板が目を引く松﨑煎餅、現在は刀剣屋やデンタルクリニックなどのテナントも入れた7階建てのビルだが、並木通りのほぼ同じ場所で店開きしたのは江戸幕末の慶應元年(1865年)のこと。もっともそれ以前、最初の店は高輪の魚籃坂にあった(1804年・創業)というから、おそらく泉岳寺の参詣客が目当てだったのだろう。
「魚籃坂の店の屋号は三河屋といったようで、どうやら煎餅屋の初代は愛知の人間で、関西で修業したと聞きます」
歴史の古い店だが、たびたびの火災で資料は焼失し、江戸や明治のころの記録は残っていない。まずは結果的に銀座を発展させるきっかけとなった明治5年の大火、そして大正12年の関東大震災、さらに昭和20年5月25日の空襲、3度店は全焼し、バラック建てから再興した。
「よく焼けるんですよ、煎餅屋なもんで……」
宗平さん、冗談でにごしたが、そうやって代々しぶとく商いを続けてきた自信も感じられる。
「それほど古いものでもないんですけどね」といいながら、ずっしりとぶ厚い帳面を見せてくれた。店では俗にレシピ帳と呼んでいるらしいが、往年の煎餅に使ったさまざまな鋳型の写しや昔のチラシ……などをスクラップした一種のアルバム。チラシの住所に“銀座西”の町名と市外局番2ケタの電話番号が記されていることから察して、およそ戦後の昭和20年代から30年代初めごろのものと思われる。
歴史を感じる「レシピ帳」
たとえば、これは詰め合わせの煎餅缶なんかに挿(さ)しこまれている紹介文だろうが、なかなか乙なことが書かれている。
夕暮に眺め見あかぬ隅田川、月に風情を待乳山、帆かけた舟が見ゆるぞへ、「アレ坊が泣く、御(お)せんは、戸棚に有るはいな」とそこへ、思いを、月雪の名も煎餅が賣り出した、撥(ばち)に形どるぺんぺいの、中の工夫(たくみ)も辻占で、文句も諸君の御好で、味と風雅(みやび)の三囲りで、日頃の口舌も白鬚と、心、關屋(せきや)に氣を永く、身を長命寺の壽と、浮かれて行くか屋根舟の、簾の内より見渡せば、土手の彼方の百眼――
これ、無意識に書き写しはじめたら、文節が一向に切れないことに気づいた。文章はこの倍くらいあるのだが、地名が織りこまれた隅田川べりの観光案内の仕立てになっているのだ。「撥に形どるぺんぺい」というのは、松﨑の定番・三味胴(三味線の胴の部分をかたどった煎餅)に対応する撥型の商品なのだろう。アルバムの鋳型ストックのなかに、それらしき格好のものも見あたる。すると「ぺんぺい」ってのは、せんべいに三味音のぺんぺんを引っ掛けたシャレなのかもれない。
隅田川べりの観光案内、と書いたが、アルバムには往時の江戸、東京風景を描いた、凝った鋳型が多々見られる。それから、菊五郎に猿之助、左團次、梅幸、福助……と、歌舞伎役者の名と浮世絵(表裏)を描いた羽子板型のものがいくつもあるけれど、この辺は歌舞伎座や新橋演舞場の興行で売られたのか、あるいは役者が贔屓客用に発注したものなのか……詳しい事情はわからないが、実に手が込んでいる。
尾上梅幸、市村羽左衛門の名が入った羽子板型煎餅の写し
実用の鋳型を忠実に写して色づけしたスケッチのようだが、眺めていると、こういう鋳型図鑑が欲しくなる。しかし、チラシの凝った文章といい、鋳型のスケッチといい、文才や絵心に通じた職員がなかにいたのだろうか……。
「もちろん専門のデザイナーやコピーライターを使ったものもあるでしょうが、6代目にあたる私の祖父は切り絵の名人でしてね、障子の紙を使って東京八景の絵柄をささっとハサミで切りぬいてみせてくれたりしました。もしかしたら、祖父じきじきのスケッチなんかも混じっているのかもしれません」
このアルバムに保存されたチラシや鋳型とほぼ同じ昭和20年代後半に刊行された東京の案内書『東京風物名物誌』(岩動景爾・著)には、こんな解説がある。
「おもちや煎餅やカステラ煎餅を創業して評判をえ、従来の煎餅の輪廓意匠烙印及原料種を改良してその水準を高め、明治四十年の東京勧業博覧会、大正十二年の平和記念博覧会等でそれぞれ賞牌を受けてゐる。日々味と意匠が変るのが特色で高貴の方始め各階層に松崎煎餅として愛好されてゐる」
高貴の方始め……といったあたり、以前にも引用したこの著書・岩動氏の評は相変わらずユニークだが、僕が気になったのは冒頭の「おもちや煎餅」。一瞬“おもち”や“煎餅”にもとれたが、これは「おもちゃ」が正解で、いまは生産されていないが、瓦せんべいのなかにクジやオマケを仕込んだ、いわゆる“フォーチューンクッキー”的な品物だったらしい。そして、定型にしばられず、さまざまな鋳型を使って新ネタが次々に送り出されてきた社風はこの解説からも伝わってくる。往年の歌舞伎役者と同じように、最近も「ちびまる子ちゃん」や「キティーちゃん」……といったキャラモノの三味胴が発売されている。
銀座本店内に展示されている焼印
商品だけではなく、銀座に続く新店舗も誕生した。場所はなんと、世田谷の松陰神社前。ウェブを見れば、おおまかな様子はわかるけれど、後日、近くを車で通りかかったときに立ち寄ってみた。世田谷通りから世田谷線の駅前をぬけて本山の松陰神社へ至るこの参道商店街は、1キロ足らずの散歩道としてもほどよく、世田谷線のほのぼのムードも手伝って、下北や西荻あたりで見るようなカフェや小物屋が目につくようになってきた。
この松﨑煎餅の店もカフェ調のつくりで、こちらには松葉の輪を描いた昔のロゴマークが大きく掲げられている。お隣はクリーニング屋、広い窓越しにも向かいのカフェが見える。「あんみつ」を味わいつつ周囲を観察していると、4人の若ママグループ、草食系男子とモード系女子のカップル、学校帰りの女子高生……銀座の店とは客筋もずいぶん違う。そして、窓外の通りを歩く観光気分の若者たちの帽子率が妙に高い。2階建てレベルの背の低い街並みのなかをパナマ帽をかぶった人たちが闊歩する……という点では案外昭和初めの銀ぶら風景に近いのかもしれない。まぁ、カフェのタイプは当時と違うけれど。