Ginza×銀ぶら百年 Vol.06
銀ぶら百年 ~イズミ式銀座街並細見~
サヱグサのシックな歴史を学ぶ
銀座(中央)通りの老舗中の老舗に子供服の「ギンザのサヱグサ」がある。いまの店舗は7丁目だが、かつては3丁目の西側角っこにあった。現在「アップル」が店を開いている所で、このビルも名義はサヱグサビルだから、いってみればアップルさんは間借りしてスマホやタブレットを売っているってことになる。
三丁目店舗
錦絵
モボ・モガたちの銀ぶらがブーム化した昭和初めのころに書かれた銀座案内書には、サヱグサが“トレンドスポット”的な扱いでよく紹介されている。
「さへぐさ、この店頭にはいつもメッシュかパカードかゞ1、2台とまってゐるが中はひっそりしてゐる。飛びきり上等ぜいたくな装身具に御用のある方はお立ち寄り下さい。」
と、やや下から目線で皮肉っぽく評しているのは『新版大東京案内』の考現学者・今和次郎。そして、銀座風俗史の教科書、安藤更生の『銀座細見』にはこんな一説がある。
「銀座は、若き者の街である。微笑するサヱグサの飾窓も、千疋屋の果物も、藁を通うタンサンも集って来るタクシーも、すべては若き者に向ってその手をさし向けている。」
そう、当時は子供服に限らず洋服、洋品全般の店で、「飾窓」とはショーウインドー。銀ぶら散歩者のひとつの流儀でもあるウインドーショッピングの定番ポイント、としてもこの店は知られていたのだろう。
サヱグサは自社の資料をはじめ、銀座の古い歴史資料を集めた一室を持っている。5丁目の三原橋脇のビルにある文化事業室。室長の三枝朝子さん立ち会いのもと、先代・三枝進氏がおもに収集された貴重な資料を見せていただいた。
初代・三枝與三郎によって店が立ち上がったのは明治2年。場所は築地居留地から近い南小田原町の備前橋の際。当初は外国人相手のいわゆる唐物屋で、洋酒なども扱っていた。資料ファイルに見つけた明治期の新聞広告に、当時輸入販売していた「チボリビール」なるレアなビールが紹介されている。
銀座に進出するのは大火後の煉瓦街が完成してまもない明治8年。このときから長らく3丁目角の店が続くわけだが、看板にはしばらく「伊勢與(いせよ)商店」の名が大きく掲げられていた。與は與三郎の頭文字だが、氏の出身地は甲州だから伊勢に地理的な由縁はない。わかりやすけりゃいい、くらいのことだったらしい。
與三郎と交流のあった内田魯庵が昭和4年の「中央公論」に『銀座繁昌記』と題して寄せた人物評がおもしろい。
「伊勢與はデップリ肥った、一見太ッ腹の負けじ魂が眉字に溢れる、堅気の旦那よりは大親分然たる恰幅だった。誰に会っても初対面からザックバランに砕けて少しも蟠(わだか)まりが無かった。座談が上手で、歯切れのイゝ快弁で胸の透くやうな話振だった。窮所を衝くやうな警句も吐いたし、毒気の無い皮肉をも云った。」
侠名硬質な銀座の大久保彦左衛門……なんてたとえも出てくるが、商いを軌道に乗せたのは使用法もわからずに、なんとなく店に置いていた「毛糸」。外国の婦人客から火がついて、看板商品になっていく。
「三枝というよりは毛糸の伊勢屋と云った方が昔の銀ブラ党には早解りがする。夫程(それほど)伊勢屋の屋号は昔のモガには馴染の深い名で、毛糸の輸入の元祖として伊勢屋と毛糸とは離れられない関係があった。」
魯庵の解説でこんな一文も目にとまった。
「三枝は(今でもだが)昔から商売が地味で手堅い一方だから大袈裟な自己宣伝は決して為なかった。奈良の大仏が富士の山のテッペンから喇叭(らっぱ)を吹くやうなお向ふの岩谷天狗式の広告は曾(かつ)てしなかった。」
お向ふの岩谷天狗……そうだ、銀座史屈指の怪人物・天狗煙草の岩谷松平の店はほぼ向かい。いまの銀座松屋の所に建っていたのだ。薩摩から出てきて当初(明治11年)は呉服屋を営んでいたこの男、やがて煙草屋に鞍替え、どういうわけか「天狗」ブランドの煙草を発売し、それに合わせて横長の大きな店を真っ赤に塗りたくり、巨大な天狗看板を掲げると、自ら真っ赤なミリタリー調の制服を着て、真っ赤な馬車に乗って宣伝してまわった。とりわけ、ライバル・村井兄弟商会のシャレた洋モクとの宣伝合戦が新聞ダネになったが、明治37年の専売法の施行によってあえなく煙草業から撤退、銀座を去った。
そんな岩谷を與三郎は調子に乗せて市会議員選挙に担ぎ出し、見事当選させてしまう。明治時代中ごろ、3丁目に向かい合った名物店主の間にそういったコミュニケーションがあったとは、魯庵の文章を読んで初めて知った。
「伊勢與商店」が「ギンザのサヱグサ」と正式に改名されるのは関東大震災後のことで、このとき現在の7丁目の店の姿にも継承されている、三角屋根チューダー様式の店舗が誕生する。サヱグサの定番となるジャージー(ウール)素材にスモック刺繍をあしらった子供服が店の人気商品へと成長していく。
この時期はもう2代目のころだろうが、魯庵の記述に「大袈裟な自己宣伝は決して為なかった」とあるように、資料ファイルにもファッションモデルなどを使った派手な広告は見あたらない。品のいいイラストに商品寄りのコピーを添えた素朴な広告が婦人雑誌などに掲載されている。
「三枝は銀座の最もシックな店
素敵な海水着と恰好のいいお帽子!
その他流行の尖端を行く御婦人洋品
が豊富に取揃えてあります」
夏カタログ
そして、鎌倉に住んでいた作家の久米正雄に宛てたDM(縁あって所蔵された)というのが、何枚か保存されている。消印を見るとほぼ昭和10年前後のもの。
「御子様洋装 ご婦人洋装 ハンドバック
ショール ベレー(チェッコ、佛蘭西か
ら新型が入荷しました)殿方へ」
昭和11年の消印が確認できるが、この時代にチェッコ(チェコスロバキアのことだろう)やフランス製のベレー帽を殿方に勧めるとは、相当シャレている。まぁ実際このDMは、久米氏よりも奥方をターゲットにしたものなのかもしれないが……。
また、いくつかのDMに「バーゲンデー」のフレーズが見られるが、このバーゲンって表現は大正時代にサヱグサが使い始めて広まったものらしい。
バーゲン
貴重な資料を拝見して(改めて、別の調べ物でもお世話になることだろう)、僕は7丁目の店に向かった。10階建てレベルのビルの間に3階建ての三角屋根の建物がかわいらしい。
1階のフロアには最近の商品が並んでいるが、若い店員さんに「昔ながらの子供服はないか?」と尋ねたところ、地階に案内された。「もう、在庫が数点なんですよ」と、彼女が出してきてくれたのは、ジャージー素材に手編みのスモック刺繍を施した7歳児向きのセーター。数年前、最後までスモック刺繍を手がけていた職人の女性がご高齢で引退して、オリジナルの手編みスモックは生産できなくなったという。さすがに、いい値段がついていたけれど、なんともいえない風合いがある。
幼いころ、サヱグサの子供服に親しんだおばあちゃんが、お孫さん、あるいはひ孫さんのためにわざわざ買いもとめに訪れる光景が思い浮かんだ。