Ginza×銀ぶら百年 Vol.18
銀ぶら百年 ~イズミ式銀座街並細見~
ニュースタイルの西銀座デパート
西銀座、という地名には特別な思い入れがある。もっとも、行政上の町名に西銀座というのはない(銀座西、という名称が使われていたことはある)けれど、当初丸ノ内線の駅名は西銀座といった。以前ここで「不二家」のことを書いたときにもふれたはずだが、幼いころ、丸ノ内線を使って銀座へ出かけることが多かった僕にとって、西銀座の駅が銀座の玄関口だったのだ。
地下鉄の駅名から西銀座は消えてしまったけれど、高速道路の高架下のショッピングモールに、いまも「西銀座デパート」の名は健在だ。この高架下のショッピングモール、5丁目の泰明小学校裏のブロックは「銀座ファイブ」、3丁目から1丁目にかけてのブロックは「銀座インズ」というのだが、開業当初から改称していないのは4丁目エリアの西銀座デパートだけ(銀座ファイブの旧称は数寄屋橋ショッピングセンター、銀座インズは有楽フードセンターといった)。そういう意味でも懐かしさを誘う。
数寄屋橋交差点に面した緑のオアシス
開業は昭和33年(1958)の10月(会社設立は昭和31年)というから、この秋でちょうど60周年を迎えるのだ。西銀座デパート創業の経緯については、先代の社長・柳澤政一氏が書かれた『私の銀座物語』(中央公論事業出版・2010年刊)にくわしい。現社長・柳澤十久二氏ともコンタクトがとれたので、両氏のお話をもとに、その歴史を解説していくことにしよう。
そもそも数寄屋橋の下を流れる外堀川の埋め立てと高速道路の工事が立ち上がったのは昭和28年ごろ、というから案外早い。昭和27年から28年にかけてブームになった『君の名は』(佐田啓二と岸惠子のメロドラマ)は、まさに晩年の数寄屋橋を舞台にしていたのである。
そう、政一氏の著書を読んでいて、えっ!と目を見張ったのはこんな一節。
「最初の計画では、もっと壮大なビルの建設が予定されていたのである。それは、地下4階・地上12階という巨大なもので、地下はすべてガレージ(倉庫のことか)、地上2階は駐車場、その上の2階を2車線の高速道路が走り(!)、そして、3階以上はオフィス街……という計画だった。」
「スカイビルディング計画」といわれていたそうだが、あの一帯(旧外堀川)に〝万里の長城″ふうの横長のビルが建設されていたら、銀座西端の景色はずいぶん変わっていただろう。
超豪華版エスカレーター
さて、昭和33年10月にオープンする西銀座デパートの初代社長を任されたのは、三愛の創業社長(リコーの社長でもあった)・市村清氏。地下2階、地上2階、収容店舗約60軒という構成は現在とほぼ変わっていないが、開店当初のDMに掲載された店の顔ぶれは、いわゆる老舗どころがずらりと並んでいる。
鳩居堂、モトキ、みどりや、ゑり円、大野屋、文明堂、清月堂、ウエスト、天一、鳳鳴春……「西銀座ニュース喫茶」なんてのもある。
「コーヒーやジュースをめし上りながら、くつろいだ気分でニュースをご覧になるのはいかがでしょう」と、解説がついているから、スクリーンで〝ニュース映画″などを上映していたのかもしれない。
そして「ブリッヂ」という喫茶店はいまも営業中だが<有料待合室>なるキャッチがつけられて「専用イヤホーンを伝って流れ出るメロディの数々……」なんていう解説書きがあるから、こちらは音楽がウリモノだったのだろう。ちなみにこの店、向田邦子さんが仕事の打ち合わせによく使った喫茶店、として知られている。
「有料待合室」ブリッヂ
オープン当時のDMに掲載された、西銀座デパートそのものの宣伝文も時代を感じさせる。
ひるもよるもたのしく
名店が売場をうけもち
ニュースタイルの西銀座デパートは
スキヤ橋にかわる 新しい話題の焦点です
ウグイス嬢がこういうのを街頭に向けてアナウンスしていたのかもしれないが、当時の西銀座が銀座のトレンドエリアだったことがうかがえる。館の上を走る高速(東京高速道路)の土橋(銀座8丁目)・城辺橋(銀座1丁目)間が部分開通するのは翌昭和34年6月のことだが、昭和32年の暮れに丸ノ内線・西銀座駅が開業、33年に入るとフランク永井が『有楽町で逢いましょう』の続編的意味合いで『西銀座駅前』という歌を出し、これが日活で映画化される。つまり、そういうちょっとした西銀座ブームの下、この西銀座デパートは幕を開けたのだ。
ところで、僕は以前朝日新聞の<東京版>に掲載された興味深い記事を集めた本(『東京版アーカイブス』朝日新聞社)をつくっているとき、昭和36年1月13日付の紙面にこんな記事を見つけた。
「〝歩行者禁止″何その 高速道路は見物台がわり」という見出しをつけて、西銀座デパートを有楽町側(おそらく朝日新聞社屋)から撮った写真を載せ、以下のような一文がある。
西銀座のデパートの屋上を突っ走る高速道路。銀座の景色をながめるには手ごろとあって、晴れた休日の新数寄屋橋付近は鈴なりの人。駐車のついでにたたずむ人、人波見たさにわざわざ上がる人が次第にふえ、いまでは、走る車より横切る人間のほうが目まぐるしい日さえある。
本社からデパートを正面にのぞむ
新数寄屋橋――と、最近はあまりいわなくなったが、昔の数寄屋橋が高速道路の架橋に置きかわったあと、しばらく「新」をつけた呼称が浸透していた。この記事写真をよく見ると、いまH.I.Sのオフィスがある有楽町側の外壁部に高速道路へ昇る階段が確認できる。「昔はここから昇り降りができたんですよ。マリオン側というか、当時の朝日新聞社側のちょっと広くなったスペースが駐車場に使われてましてね」と、現社長からうかがった。
そういえば、この一角に並んだ外車の前で石原裕次郎や小林旭……日活スターがポーズをキメた芸能写真をどこかで眺めた記憶がある。
記事にあるように、高速道路はできてもまだ車の数は少なかったのだろう。〝見物台″と見出しにあるが、当時の銀座の夜景写真はだいたいこの地点から撮影されていた。
西銀座デパートの事務所(西銀座通りをはさんだ向かい側の塚本素山ビル内にある)で見せてもらったアルバムに、開店5周年(昭和38年)の記念イベントで1日店長を務めているタレントの写真が何枚かあった。木の実ナナ、森山加代子、林家三平、ボクシングの海老原博幸……僕がテレビに熱中し始めたころの面々で実に懐かしい。すぐ横の不二家の喫茶室でプリンやチョコレートサンデーをむさぼり食っていた小学1、2年生のころである。
銀座側の小広場に面してニッポン放送のサテライトスタジオが設けられたのも、そのころではなかったか? やがて外面一帯には日劇から宝くじ売場が移ってきて、現在は「西銀座チャンスセンター」の名で知られている。もう1つ、80年代ごろから2階の割と広いスペースで営業を続けているのがサンリオのショップ。サンリオも含めて、この20年来、フロアの大方は女性客相手の店舗になっている。
まぁ当初から女性向けの店が多かったとはいえ、先の西銀座ニュース喫茶やブリッヂなどは、隣の朝日新聞の記者が原稿の受け渡しや執筆によく利用していたと聞く。
取材の帰り、地下1階のブリッヂに立ち寄ってみた。向田邦子さんが愛用していた……とされるあたりの席をウエートレスに教えてもらって、アイスコーヒーを注文、ふと周囲を見回せば、新聞社のないいまはイカつい男性記者ふうの姿はなく、若い女性のグループが2組、3組……。
チラ見すると、彼女らのテーブルに置かれているのはコーヒーや紅茶ではない。あの緑色の丸っこい物体は……そうか、メニューのトップに掲げられている「メロンパンケーキ」ってやつに違いない。マスクメロンの筋の入った皮をキュートに表現した、半球型のパンケーキ。まさに「インスタ映え」というフレーズがなじむたたずまいをしている。
62歳の初老人がオーダーするものではなかろうが、60年前の創業当時からの喫茶店が少なからず時代の〝ニュースタイル″を取り入れて、しぶとく生き残っているのを確認し、なんだかホッとした。