Ginza×銀ぶら百年 Vol.15
銀ぶら百年 ~イズミ式銀座街並細見~
ペコちゃんのクリスマス
子どものころの銀座の記憶を回想するときに、まず思い浮かんでくるのが不二家のたたずまい。銀座通りの6丁目(現在のGINZA SIX向かい)に銀座店があったけれど、僕にとってとりわけ印象深いのはいまも残る数寄屋橋店だ。
おそらく、初めて親に連れていってもらったのは幼稚園児の年ごろと思われるが、当時はまだ3、4階くらいの建物で、フランスキャラメルのパッケージをかたどった大きなネオン看板が掲げられていた。そのころのわが家は目白の西の下落合にあったので、銀座に行くときは池袋か新宿へ出て丸ノ内線でアプローチした。日比谷線の開通(1964年)で地下のコンコースが4丁目交差点の銀座線の駅とつながる以前、丸ノ内線の西銀座駅で降りて地上に出ると、そこに不二家の数寄屋橋店があった。つまり、銀座の玄関口(あるいは去りぎわ)の景色として、目の底に焼きついているのである。
いまと同じく1階はケーキやキャンディーを陳列した菓子売り場だったが、夏場は店頭にフルーツシャーベットを収納したアイスボックスが置かれ、師走のころになると銀紙やベルベットっぽい質感の赤紙でコーティングされたクリスマスの長靴容器のキャンディーセットがずらりとぶらさがっていた光景が思い出される。
昭和32年ごろの数寄屋橋店
そして、2階に上がった所に喫茶室があった(その時代の写真を見ると、2階と3階の間に“GRILL TEA・RООМ”のネオンが出ているから、たぶん3階が食事のできるレストランだったのだろう)。ともかく、記憶に残るのはこの2階の喫茶室でプリンやチョコレートパフェの類いをおねだりして、食べさせてもらったことである。あの時代っぽい、甘いバニラエッセンスとカラメルを混合させたようないい匂いが鼻の粘膜に記憶されている。
さて、そんな僕の思い出話はいったん中断して、店の歴史をさかのぼってみよう。創業者は藤井林右衛門といい、明治43年(1910年)に横浜の元町で洋菓子の店を立ちあげた。前田橋から入った2丁目、現在のゴディバの並びあたりに存在したようだが、社史に創業当時のモダンな町並みをとらえた写真が載っている。木造の日本家屋ながら<FUJIYA FRENCH CAKES>なんてヨコモジの突き出し看板があって、向かいにも<千代田バタ>なんて看板の店が見えるから、このへん、西洋センスの店が並ぶ、まさにバタくさいエリアだったのだろう。
創業80年記念社史に掲載された林右衛門と徳川夢声の対談(創業50年目の1959年に行われた)で、洋菓子屋開業の経緯が語られている。「ちょうどその時分にフランスの食料品だとかお菓子を売っていたヘアウレーというのが居留地にあったんです。そこに長く勤めていた辰さんという職人が遊んでいたので、あの人を雇って、お前、お菓子屋やらぬかと」
助言したのは、林右衛門の義理の兄らしいが、藤井青年は2年後の大正元年、本場の洋菓子の知識を学ぶため渡米、ロサンゼルスで屋台のウドン屋をやって食いつなぎ、ケーキづくりのノウハウを修得して帰ってきた。
大正11年(1922年)、伊勢佐木町に新店を出し、翌12年夏に銀座に進出したが、開店27日目にして関東大震災に見舞われる。銀座の不二家はまさに波乱の幕開けだったのだ。
ところで、当初の洋菓子メニューって、いったいどんなもんだったのか……気になる人も多いかと思うが、まず看板商品はシュークリーム。これはシューマイと並ぶ横浜名物、といわれた時期もあったという。それから、エクレア、焼きリンゴ、コロネと呼ばれる渦巻型のクリームパイ……。ちなみに、昭和12年の不二家喫茶室のメニューが社史に載っているが、チョコレートやストロベリーのパフェ、アイスクリーム・サンデー、ピーチメルバ、フルーツポンチ……と、僕の子ども時代に近い充実したメニューがすでに戦前から確立されていたことがわかる。
夢声との対談のなかで、へーっと思ったのは、昔の銀座不二家のご常連の面々。
藤井 だが不思議に文士の人、ずいぶん来てました。それに大学生、今の岸総理大臣だの何かみんなうちへ来たらしい。
夢声 そうでしょうね。
藤井 体の大きな横尾泥海男だとか、それから最近よくテレビに出ております斎藤達雄。
夢声 ああ、あの連中が若いころです。横尾泥海男はもう死にましたよね。
藤井 歌舞伎の俳優も相当来ていたんです。
岸信介は若いころから甘党だったのかもしれない。斎藤達雄は小津安二郎映画の脇役や戦後はテレビのホームドラマの人気者だったが、横尾泥海男というのはおもしろい。泥海男はそのままベタに“デカオ”と読む、いわゆるデブタレントの先駆けで、初のトーキー映画『マダムと女房』の画家の姿が印象深い。しかし、昔の不二家の常連、“スイーツ男子”ばかりってのが、なんだか微笑ましい。
さて、不二家といえば、なんといっても「ペコちゃん」だろうが、この強力なマスコットが誕生するのは戦後の1950年。ペコちゃんと追って考案されたボーイフレンドのポコちゃんをマスコットに翌51年の暮れ、乳菓「ミルキー」が発売される(全国販売は52年)。
銀座店など不二家の店頭に、幼児ほどの背丈のペコちゃん人形がお目見えしたのもこの時期だ。以前、そば屋のよし田の回でも紹介した53年の東宝映画『都会の横顔』のなかに、迷い子の女の子が6丁目の不二家の店先で、ペコちゃん人形にチョッカイを出しているようなシーンが一瞬映る(数寄屋橋店もこの年に開店した)。
ペコちゃんのキャラを広く浸透させたミルキー、僕の世代は手さげヒモつきの大箱がなつかしい。小カバンくらいのサイズのミルキーが、昔の吹きさらしの菓子屋の店頭にタワシのような感じでいくつもぶらさがっていた。そして、この大箱のほうのミルキー、ペコちゃんの目の所が凸状のビニールでコーティングされていて、なかの黒目の部分がひょこひょこ動く仕掛けになっていた。これ、おもしろかったけど、黒目が端っこのほうに寄ったりすると、ちょっとコワイ。
昭和38年ごろの不二家菓子カタログより、ミルキーのページ
小型のミルキーには、チョコレート、コーヒーの味のものもあって、もちろん店でも売られていたのだろうが、僕にとっては幼稚園の光景が重なる。通っていた幼稚園でときおり催される幻燈会(いわゆる映画上映会だが、当時はこう呼んだ)のときに、このチョコ味とコーヒー味のミルキーが配布されたのだ。
パラソルチョコ、ペンシルチョコ、シガレットチョコ、ポップキャンディ、ノースキャロライナ、フランスキャラメル……と、思い出の不二家商品について書き出していたらキリがない。
テレビっ子の僕の世代にとって、日曜夜7時半(TBS)の不二家提供の番組の影響も大きい。アメリカ漫画の『ポパイ』(『ベティー・ブープ』の短編作もときおり入る)に始まって、『オバケのQ太郎』『パーマン』……青春ドラマの『サインはV』に『アテンションプリーズ』……一連の番組とともに、ルックチョコレートやクリスマス、ひなまつりのデコレーションケーキのCМが思い浮かんでくる。
僕が不二家にどっぷり浸っていた東京オリンピック(64年)のころ、開高健はルポルタージュ『ずばり東京』の連載で、銀座の不二家を取材している。師走の不二家の店先で、クリスマスケーキや銀紙の長靴キャンディーを買ってもらっていた僕が、なるほど、そういうことだったのか……と納得したのが次のような分析。
「不二家の方針を濃縮してみると『パパ、早くお家に帰って!』ということになりそうである。六十三年のクリスマスには二日間で約二十八万コのクリスマス・ケーキを売った。この店が洋菓子の起爆剤となってソフトアイスクリームやら、なにやら、つぎつぎと連鎖反応が起り、『ホーム・スイート・ホーム』も連鎖反応が起り、クリスマス・ケーキについていえば、六十三年は全東京の洋菓子店で約二百五十万コ売れたというのである。そういえばあの頃、しきりに、クリスマスが静かになった、静かになったという声を聞いたことを思いだす。二百五十万人のパパが酒を飲まないでケーキを買ってさっさと家へ帰っていったのだから静かになるはずである。銀座のキャバレーやバーから苦情をいわれるかも知らないといって、社長はニコニコと苦笑していた。」
三角帽をかぶったオッサンたちが無闇にキャバレーで大騒ぎしていた、終戦後のヤケクソ気味のクリスマスの流れは不二家のファミリー戦略によって、断ち切られたのだ。ペコちゃんには、そういう力があった。
昭和33年ごろ、店頭の母子連れ
当時のチョコレート菓子
ちなみに、この取材で数寄屋橋の不二家を訪れたのは10月のハロウィーン前。1階の売り場にはオレンジ色のカボチャをかたどった菓子が並び、店頭のペコちゃん人形はハロウィーンのカボチャの魔女みたいな仮装(ま、だいたいいつも仮装だが)をしていた。
そうか、いまはクリスマス前にこんなイベントも割りこんできたから、ペコちゃんはますます忙しい。
2017年不二家のクリスマス