銀ぶら百年

憧れの「米倉」で床屋談義

Ginza×銀ぶら百年 Vol.28

銀ぶら百年 ~イズミ式銀座街並細見~

憧れの「米倉」で床屋談義

2021.03.25

泉 麻人

 床屋談義、という言葉がある。床屋(理容、理髪店)で髪を刈ってもらいながらオヤジさん(店員でもいいけれど)と世相やら町内会の噂話やらをやりとりすることだ。ここでも一度そういうスタイルの取材をやってみたい、と思っていた。というより、そんな感じで銀座の老舗「米倉(よねくら)」のことを書いてみたい、と以前から構想していた。
 店舗の規模としてはホテルオークラ(プレステージタワー)内の店の方が大きいようだが、本店は銀座5丁目、数寄屋橋の銀座ファイブに入っている。みゆき通り側の口から入ってすぐの2階。横長の店の玄関先に〈理容・米倉〉と小さな突き出し看板が掲示されているが、この「理容」という語は病院などの医療施設に入るときのように、身体をシャキッとひきしめるムードがある。
 なんて書き方からも察せられるだろうが、「床屋談義」とはいえ僕はこの店の常連客ではない。もう40年近く代官山のヘアサロン系の店に通っているのだが、銀座の米倉で散髪してもらう、というのは若い頃からの憧れでもあった。
 通路にそった横長の店で、僕の髪(肌や(ひげ)も)を整えてくださるのは店長の大嶋昭格さん。現在、この銀座本店は大嶋氏が1人で仕切っている(受付に女性が1人)。取材日の2月中旬時点で「65歳」とうかがったから、4月で65の僕より1学年上、ほぼ同年代である。
 ゆったりと3つ配置された調髪イスの1つに腰掛けると、まず髪の状態をささっと手先で確かめられた。
まずはカウンセリングから
まずはカウンセリングから
――髪の毛、多いですね。
――そうですか、この辺だいぶ透けてきたんじゃないかな……。
――いや、(ほそ)くていい髪ですよ。

「細い」ってのはやはり衰えてきているということではないか? とも思ったけれど、まぁそんなあいさつめいたやりとりから“床屋談義取材”は始まった。

――創業された初代は米倉「近」と書いてチカシさん?
――ええ、米倉(ちかし)。日本橋の篠原理髪店で修業をして、築地の精養軒ホテルに店を出したのが始まりです。
 HPの頭に〈SINCE 1918〉と記されているが、これが大正7年のこと。ちなみに築地の精養軒があったのは采女橋の西詰、いま時事通信社ビルが建っている所だから、いわゆる東銀座。〈沿革〉の資料を読みながら、地理にこだわる僕が興味をもったのは、銀座における店の移動。店は震災後の大正14年に6丁目の菊水タバコと同居、昭和11年に同じ6丁目の並木通りぞいに吉田五十八設計の3階建店舗を建て、戦争を挟んで昭和37年暮れに隣地から拡張された朝日ビル地階へと移り、平成9年からはかつて築地精養軒のあった場所の銀座東急ホテル、そして銀座東急ホテル閉館に伴って現在の銀座ファイブへやってきた。地図を見ると、ほぼ「みゆき通り」ぞいを北上している。
――初代や2代目は何か方角にこだわったんですかね?
――いやぁそれは聞いたことありません。たまたまでしょう。
「方角」はともかくとして、創業者・米倉近の“頑固な職人気質”が伝わってくる一文が往年の「銀座百点」(昭和32年8月号)に載っている。近氏自ら寄稿した「出張仕事のこと」というエッセイで、とある宮様とのエピソードが(つづ)られている。

 或宮様の所へ出張して、理髪をして居る時に、仕事の話に四方山の花が咲いて
「……それではお前が、日本で一番上手なのか……」
殿下はこう仰せられた。私もつい、
「左様でございます……」と、ハッキリお答え申上げて、内心「困ったナ」と、思った。

 落語調の問答形式で書かれたユーモラスなこの文章、やがて洋服屋や靴屋などを例に出して自らのプロ魂が語られる。
 殿下が「仮縫に四回訪れる洋服屋」のことを得意気に語ったのを受けて、こう切り返す。

「私は、そんな自信の無い洋服屋の仕事は本ものでは無いと存じます。洋服だから、四回も仮縫して親切のようにも思えますが、理髪に四回も刈直しに伺ったら何とお思いになりますか……」

そして、

「私が洋服屋ならば、殿下のお姿を拝見しただけで、寸法など計りませんでも、ぴったりした服を作りたいと思います……」

と、言ってのける。

 名文ゆえ引用が長くなってしまったが、近氏が理容業の理念に掲げていたのは「業即信仰」という、三波春夫の「お客様は神様です」と同意の言葉で、これは常連客の松下幸之助が講演などで使って広められた。
 
ところで、大嶋店長が「米倉」に入店したのは理容の専門学校で近氏の息子さん(三男・誠敏=現リーガロイヤルホテル大阪店)と知り合ったのが発端というが、そもそも実兄が理容師をやっていて、子供の頃から興味をもっていたらしい。
「深川の洲崎に店があったんですけど、髪刈ってもらいながら、いつかオレもって……」。洲崎といっても、年代的にみて、“洲崎パラダイス”の歓楽街は衰えたあとだろう。理容学校を卒業して店に入ったのが昭和48年、石油ショックの年である。
「当時、池上に社員寮がありまして、本門寺の手前の堤方(つつみかた)橋ってとこですが、10人くらいが寝泊まりしていましたね。ウチは松戸だったんですけど、ここに入れられまして、先輩にシゴかれた。すぐそばを東京駅まで行くバスが走ってまして、帰りはこれに乗るんですけど、朝は6時に家を出るんで、まだバスはない。蒲田の駅までけっこう歩いて、京浜東北線で新橋まで出てパン買って並木通りの店へ、ってコースです」
 構成上、散った話をまとめてはいるが、大嶋さん、ハサミの手を小刻みに動かしながら、流暢(りゅうちょう)に話す。ヘアサロン系の店は黙々とカッティングするのが流儀のようになっているけれど、理容系の人はよく(しゃべ)る。客との会話が床屋らしい光景をつくり出している。
大島さんの話術もハサミもよどみなし
大島さんの話術もハサミもよどみなし
後ろから見ると、きれいに整っていること一目瞭然!
後ろから見ると、きれいに整っていること一目瞭然!
 さて、「米倉」の場合、襟足を残して髪のカッティングを終えたあと、オリーブ油を使って頭皮マッサージが施される。

――キモチいいですね、業務用のオイル?
――いや、イタリア料理なんかでも使える食用のオリーブ油です。

 どこそこのエキストラバージンオリーブ……かどうかはともかく、オリーブ油を浸みこませて頭皮の老廃物や脂を取りやすい状態にしておいてから、シャンプー、リンスへと進む。
 このオリーブ油の頭皮マッサージ、最近のオプションではなく近氏が店を仕切っていた時代から行われていたという。
至福のマッサージタイム
至福のマッサージタイム
 洗髪後にはまた、トニックを振りかけての入念な頭皮マッサージがあるのだが、濃い柑橘系の香り漂うヘアトニック、僕が若い頃に愛用していた「4711(ポーチュガル)」なのがまたうれしい。
 店内にはモーツァルトの曲がソフトなボリュームで流されていたが、BGMとは別に時折聞こえてくる電車や自動車の音が段々と耳になじんでくる。
「このすぐ下が地下鉄の丸ノ内線、天井の上が高速道路、通路の向こうの窓の先が新幹線なんですよ」
 おそらく、この店の常連さんにとって、こういった雑踏音も「米倉」の重要なSEなのではないだろうか。
 洗髪のあとに襟足の毛を剃り、髭をあたってもらった。ホイップクリームみたいな、温かい石けんの泡を刷毛(はけ)で顔に塗られる時間がなんとも心地いい(この後に格別な()かき(・・)もつく)。
シェービングでみるみるピーチスキンに変身
シェービングでみるみるピーチスキンに変身
 松下幸之助をはじめ、「米倉」に通った有名人は数多いが、大嶋さんが接触した人のなかで野坂昭如の髭をめぐる話には思わず笑った。

――先輩から引きついで、私が担当したのは御年輩になられてからですが。
――いろいろと注文をつける?
――口数は少ないんですが、「今日はスケべったらしいジゴロみたくしてくれ」なんて、ぼそっとおっしゃる。
 とりわけ、脳梗塞で倒れるほんの1週間前(もっとも他界されるのはその10年余りあとだが)に調髪にこられたときのことが印象深いという。
「NHKホールで永六輔さん、小沢昭一さんとのコンサートを久しぶりにやるっていうんで、カッコよくしてくれって直前にこられまして。そこで着る『壹番館』のジャケットがウチに届く、ってことでどんなのかな……と思ってたら、派手な真っ赤な背広なんですよ。調髪して、衣装合わせをしてね。目に焼きついています」
 そんなお話を伺った後に、「銀座百点」50年を祝して刊行されたエッセイ集『百点満点』をめくっていたら、野坂氏の「ぼくは銀座の若大将」という一文を見つけた。銀座遍歴を時代順に綴ったこのエッセイに“苦手な店”が列記された箇所がある。

 やはり「壹番館」は気おくれして、「銀座テーラー」、「フジヤ・マツムラ」には入れず、
「花菱」、四丁目の「田屋」、「フタバヤ」はおそろしいから「ワシントン」、「米倉」は駄目で、理髪「ヤング」。どっちが高級というわけじゃないが、貫禄負けしてしまう店はあるもの。

 とあるけれど、これは昭和30年代中頃あたりの話のようだから、なるほど野坂さん、30年、40年かかって貫禄負けしていた「米倉」を制し、「壹番館」の真っ赤なジャケットまで着られるようになった、ということだろう。

ところで、僕の散髪後の姿は様になっているだろうか。

*この連載エッセイをまとめた書籍が文藝春秋より年末に刊行される予定です
大島さんと、すっかり銀座紳士に変身した泉さん。
大島さんと、すっかり銀座紳士に変身した泉さん。

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