Ginza×銀ぶら百年 Vol.26
銀ぶら百年 ~イズミ式銀座街並細見~
西銀座通りの民芸の王様
西銀座(外堀)通りを新橋のほうへ歩いていくと、8丁目のブロックに入ったあたりに、<たくみ>の看板を出した民芸品の店がかなり昔からある。ひところまでコリドー街裏の高架下にあった<インターナショナルアーケード>のように、東京オリンピックのころに外国人観光客を目当てに店開きしたのではないだろうか……と、ぼんやり想像していたのだけれど、開業は戦争より前の昭和8年(1933年)だという。もっとも、当初はさらに新橋寄り、昔の土橋際の角から2、3軒目あたりに2階建て店舗があった。
開店当時のたくみの外観
取材に訪れて、まず1階の店番をするベテラン店員の世川進さんと立ち話をかわしたところ、土橋際の角地にリクルートの1号ビルが建つ70年代の中ごろまで旧店舗は健在だったようだ。この世川氏が店に入ったのは52年前というから1968年……そうか、小学6年生の僕が近所にできた民芸屋に興味をもったのと同じころだ。あれは広重の東海道五十三次(永谷園のお茶づけ海苔でもらえるカードがハヤっていた)の「蒲原」がきっかけだったか、あるいは水木しげるの妖怪モノが発端だったか、昔の番傘にグッときてしまって、その民芸屋に飾られているのをよく眺めにいったおぼえがある。「明治百年」などを契機に、素朴さやレトロ感のある民芸品が静かなブームになっていたのだ。わりと仲のよかった女の子(何人かでグループサウンズの真似ごとをやっていた)の誕生日会に呼ばれたときに、ちょっとオトナっぽさを演出すべく、この店で土鈴のようなものを買っていった記憶もある。とはいえ、僕の“民芸趣味”はあまり深いところまではいかなかった。
<たくみ>の店内、1階は茶碗や小皿、手ぬぐい(民芸調マスクもある)などの小物が目につくが、階段を上った2階には東南アジアのローカルな織物(タイ・メオ族のマリファナクロスなんて大麻製ジャケットにドキッとした)なども含めて衣類や大型の調度品が陳列されている。そんな一角に置かれた応接卓で古い資料や写真を見せてもらいながら、現社長の野﨑潤さんからお話を伺った。
「いまも<たくみ>の屋号の前に“諸国民藝”と付いていますが、そもそも“民藝”という言葉は、柳宗悦と陶芸作家の濱田庄司、河井寛次郎の3人がつくったものなんですよ」
当初は“民藝的工藝”といったそうだが、その名のごとく、民衆の間に根付いた、生活用具の芸術性に目を向けよう……といった社会運動が根底にあった。明治末から大正時代にかけて運動は活発化、震災を経た昭和の初めから各所に民芸(以下、略字に統一)美術館や民芸品店が計画されていく。
民芸美術館としては昭和11年(1936年)に開館した駒場の「日本民藝館」が有名だが、ここはわが仕事場から歩いて10分ほどの近場なので、取材の前に見学してきた。館内には、バーナード・リーチや濱田庄司、河井寛次郎、棟方志功、芹沢銈介、といった柳の同志ともいえる人々の作品(陶磁器や版画など)も見られるが、なんといっても目を引くのは、柳が大正のころから昭和初めにかけて朝鮮半島(おもに京城周辺)で勢力的に集めたという李朝工芸品の諸々だろう。いまはどれもお高そうなアンティーク……という趣だが、<1940年代>なんて時代表示も見受けられるから、もしや当初は<たくみ>の商品棚に安い値札を付けて売られていたものもあるのかもしれない。
「柳の蒐集熱に火を付けた、といわれているのが木喰仏。木喰上人という江戸時代の遊行僧が施しを受けた村々で手作りして奉納したという素朴な仏像ですが、民芸館でごらんになりました?」
野﨑社長にいわれたその仏像、木漆工芸のショーケースに飾られていたが、すぐにマンガで描けるようなコミカルな姿をしていた。へー、こういうキャラっぽいやつも柳は好きだったのか……と、微笑ましい気分になった。
ところでこの日本民芸館、前田侯爵邸の森を背景にした武家屋敷のような建物も素敵だが、向かいの西館(現在閉館中)は採集旅行中の栃木県下で見つけた大谷石長屋門を移築した……という柳自慢の住居だった。
民芸館の話はこのくらいにして、それより3年前の昭和8年暮れにオープンした<たくみ>、月刊発行していた広報誌に柳宗悦の開店に寄せた一文が載っている。
先に開店した知人の店を例に「商売は俗事に縁多く、学者や趣味家が携わるのは危険である」と、当初こういう民芸商店の開設を危惧していたようなことも書かれているが、文章の後半では<たくみ>の意義らしきことが述べられている。
「工芸の運動も色々あろうが、要するにこの世を健全な美しさに高めるのが大眼目である。それがためにはかえって手近に各家庭にできるだけ正しい実用品を広く入れる事が大切である。この事への橋渡しをするのがこの店の任務である。それ故売れる品に標準をおくより、正しい品に目標をおいて進みたい。」
この文章の頭のほうで「もっとも私はこの<たくみ>と別に経済的関係はない」と断っているから、つまり柳は“監修者”とか“プランナー”的なスタンスだったようで、店が軌道に乗ってきた昭和10年ごろからの店長は浅沼喜実という人物が任されていた。後年社長を務めた志賀直邦(志賀直哉の甥)の解説によると「東大法卒、日本農民組合の書記時代に治安維持法違反で検挙され、二年入獄ののち釈放」とあるから、かなり左寄りの人だったようだが、いくつかの資料を見ても「浅沼稲次郎」とは関係がないようだ。
そう、説明が後回しになったが、実は<たくみ>という店、銀座より先(昭和7年)に鳥取で開業、こちらを仕切っていたのが吉田璋也という民芸運動家にして地元鳥取の耳鼻咽喉科医で、この人が銀座の店にも深く関わっていたという。
開店まもないころの写真に、外国人女性のグループが店に群がるショットがあるけれど、銀座は戦前から外国人の客が多かった。とくに西銀座界隈)は画廊などのアート系の店がかなり昔から集まっていた。それと<たくみ>の発展に欠かせなかったのが、デパート。年譜を眺めると、開店の翌年あたりから髙島屋や松坂屋、三越といった百貨店での催物が並んでいる(ことしも8月の終わりから9月にかけて、日本橋と大阪の髙島屋で民藝展が開かれた)。
デパートというと、ちょっと形態は異なるけれど、野﨑社長は渋谷の東急ハンズに20年あまり勤務していた人なのだ。文房具の担当だったというが、モノをよくわかったスタッフが日用大工のエプロン姿でマニアックな品々を売る往年のハンズのスタイルは<たくみ>の姿勢に相通ずるところがある、といっていいかもしれない(近ごろ、だいぶ様子が変わったが)。
いまの店内を見渡して、目につくのは店の看板や包装紙のデザインを手がけた芹沢銈介や棟方志功の版画。棟方は民芸グループでは後期の人になるが、若いころから柳が目をかけていた作家だ。実は僕、志功の孫娘の頼子さんと慶應の付属中学で同級だったのだが、この日2階で取材をしているときに、彼女が1階の店をひょっこり訪ねたらしい。世川さんにあとから聞いて知ったのだが、う~んちょと残念……。
棟方志功の図案をもとにした手ぬぐい
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ところで<たくみ>の商品というと、主力はやはり各地方のやきもの(窯)だろう。ちょうど、って言い方もヘンだが、取材前日に“ビール飲み”に使っていた陶磁の器を割ってしまったので、なにかいいのを見つけて買っていこう、と考えていた。
2つ3つ、迷った末、沖縄・読谷村焼のコップ型の器(タンブラー)を買った。淡い土色の地に点てんと入ったにじんだ青の丸模様が気に入った。読谷村は15年くらい前「やちむんの里」と呼ばれる窯元の集落を取材で訪ねたので、土地の親しみもある。
ビールの相棒を探してます
どちらにしようか、迷った器の産地に<日田皿山、小鹿田>という窯元があった。小鹿田という、方言じみた読みの地名もいいけれど、ここは柳ら民芸グループが古くから通っていた<たくみ>ともつきあいの深い窯元で、野﨑社長から見せてもらった動画に棚田を背景にした美しい山間集落が写っている。丸石垣の小川の水力を使った「唐臼」という昔ながらの工具も魅力的だ。しかも、そういう場所で若い職人ががんばっている。
さっそく地図で調べてみると、大分県日田市の北端。西側の山向こうに筑前岩屋という小さな駅があるようだが、この日田彦山線という鉄道は大雨被害で休止中(結局、新式のバスシステムに変わるらしい)だ。しかし、路線バスのアプリで日田の駅前から小鹿田窯入り口の皿山まで行くレアなバスがあるのを知った。ここ、コロナ騒ぎが収まったらまず訪れてみたい。
世界の民芸品に囲まれる店内は時間を忘れます。左から、野﨑社長、泉さん、世川さん。