銀ぶら百年

呉服の越後屋、健在

Ginza×銀ぶら百年 Vol.21

銀ぶら百年 ~イズミ式銀座街並細見~

呉服の越後屋、健在

2019.06.25

泉 麻人

 銀座には江戸のころから続く古い店が何軒かあるけれど、ほとんど同じ業態のまま継承されている、というところは数少ない。銀座通りの2丁目、呉服の「越後屋」はそういう大老舗の一つだ。いま、表の銀座通りに面した側にはプラダのシスターブランド「Miu Miu(ミュウミュウ)」のショップが入っているけれど、通路をぬけた銀座ガス灯通り側には昔ながらの看板を掲げた「越後屋」の店舗が健在だ。僕はふだん和服を愛用しているような者ではないので、この店に関しての個人的エピソードや商品ウンチクを語れるわけではないのだが、越後屋という店の存在、その歴史については以前から興味をもっていた。
 まず、ネットで「越後屋」と検索してみると、三井越後屋(現・三越)なども含めた店の情報とともに、あの時代劇の定番フレーズについての書きこみがいくつも表れる。
「越後屋、おぬしもワルよのぉ……」
 という、あこぎな商人と悪代官のやりとり。とはいえ、意識しながら時代劇を観てみると、あまりひんぱんにこういうシーンが出てくるわけではなく、また商店の名も「但馬屋」だったり「三河屋」だったり……けっこうバラつきがあるもので、おそらくこの「越後屋、おぬしも」のフレーズは、時代劇というより、それをパロッたコントやマンガによって定着していったものなのだろう。
 この時代劇やコントによく使われる越後屋、江戸のころからの呉服屋とすれば、有名なのは先の三井越後屋か、ここ銀座の越後屋がモデルということになるだろうが、時代劇といえば「水戸黄門」の黄門様が自らの正体を語る場面でしばしば‶越後の縮緬(ちりめん)問屋″と(のたま)っている。実際、モデルの水戸光圀公は越後地方の縮緬を愛好していたそうだが、銀座の「越後屋」の創業者・永井長助は、まさに越後縮緬の名産地・高田(上越市)の出身だった(日本橋の越後屋を立ちあげた三井高利は越後ではなく、伊勢の出の人なのだ)。
 永井長助が縮緬問屋のせがれだったかどうかはハッキリしないようだが、彼は20歳(ハタチ)を少し過ぎた宝暦5年(1755年)、京橋の南伝馬町(現・京橋1、2丁目あたり)に藍染屋として「越後屋」を創業、50の歳に‶甚右衛門″を名乗り、以後この名は代々と相続襲名されている。
 銀座にやってきたのは、文化2年(1805年)ごろ、先代の死去に伴って2代目が店を継いで以降とされる。当初の店舗は現在より数軒ほど京橋寄りの角地だったようだが、まぁほぼ220年、銀座2丁目の地で商いを続けているといっていいだろう。
 当時の町名は新両替町2丁目。この名はいわゆる‶銀座″のもとになった銀貨の鋳造所とその後の両替所に由来する(道向こうの銀座・伊東屋の前に‶銀座発祥の碑″もある)。つまり、銀座でも早くから人が集まっていた京橋寄りの地で越後屋は発展していったのだ。
 3代目の時代に入った明治のころからの店の資料が残されている。出桁造ふうの2階屋の店の外観を描いた絵があって、3代目が採用したという「榮」の文字をかたどったロゴマークと‶呉服太物類 越後屋″と記した立看板が描かれている。太物――という言葉はもはや使われなくなったけれど、これは‶絹の呉服″と区別するために、糸の綿や布の着物にあてがわれていた言葉だ。
看板にも「榮」の意匠が使われている
看板にも「榮」の意匠が使われている
 そして、この時期(明治26、27年ごろ)の店の見取図を眺めると、表の銀座通りに面して畳間の売り場が置かれ、タンスとおぼしき箇所に友仙、御召、木綿……などの品目が記されている。ウナギの寝床状に奥に続いた建物の中ほどに奥座敷、台所とあって、現在のガス灯通り側に土蔵が配置されている。2階に6畳と4畳の間、女中部屋の表記があるけれど、店の人間が寝泊まりしていたのだろう。
 今回、こういった資料を提供してもらいつつ、お話を伺っているのは、いまの9代目社長のお姉さんにあたる永井真未さんなのだが、彼女のお話によると、この3代目のころはまだ店主一家もここで生活していたらしい。
 ところで、看板に記された「榮」のロゴマークは、3代目が御贔屓(ひいき)客から教えられた漢語に由来するようだ。これは現店主もHPのあいさつ文で語られている。
「以力勝者家不久 以徳勝者家久栄」
(力を以って勝る者、家久しからず。徳を以って勝る者、家久しく栄える。)
 力よりも徳が大切である、と説いたものだが、この末句の‶家久栄″の‶栄″にちなんだ意匠なのだという。以後、少しずつアレンジされながら、引き継がれてきた。真未さんのお話では、現行の洗練されたロゴマークは理系出身でデザイン好きの7代目(彼女のおじい様)が自ら制作にも関与してできあがったものらしい。
 大正から昭和初めのころに使用されていた〈越後屋商店店則〉というのも保存されている。おもわず目を見張ったのが、店に入った初年から順に階級と給与額を記した表。
 初年 十五級 見習無給――というのに始まって、年ごとに級は上がっていくが、五年の十一級でようやく(いち)円の給与が支給され、以降、壱円半、二円、参円……と昇給していく。
 廿一(二十一)年、一級のところまで書かれているから、丁稚(でっち)から始めて20年でようやく一人前になる、ということなのかもしれない。
「越後屋商店店則」より
「越後屋商店店則」より
 店のつくりが大きく変わるのは、関東大震災(大正12年)で焼けたあとのこと。数年間、バラックの店舗で営業されたあと、昭和の6年に7階建てのビルヂングが竣工した。屋上にトンガリ帽子型の塔屋を載せた建物は、浅草の地下鉄(雷門)ビルなどにも見られる、昭和初めの商業ビルのトレンドといってもいいだろう。ビルの新店開業直後のDM(昭和7年2月)に「今回館内に洋服部を新設仕り……」と記述されているが、これは銀座通りの対面3丁目にオープン(大正14年)した松屋を意識したようなところもあるのではないだろうか。当時の地図にはまだ「松屋呉服店」と表記されているが、呉服ばかりでなく洋服も食堂も備えたデパートメントストアーの様相を呈していた。松屋ばかりでなく、松坂屋、三越といった震災後のデパートの進出は、越後屋のような地場の呉服店にとって、かなりの脅威だったに違いない。テナントの名称は明確でないが、ビル建てになってからは館内に飲食店なども入るようになった(旧ビルの晩年には地階に「中華第一楼」という渋い店があった)。
 昭和初めの銀座の街並みを活写した松崎天民の「銀座」(昭和2年刊)に当時の1、2丁目あたりの‶銀ぶら事情″が解説されている。
「一丁目は東側が賑やかであるが、二丁目は西側が繁昌して、そのシヨーウヰンドの景観も、大に見るべきものが多い。プレイガイドや、越後屋明治屋と見て歩けば、屈託した午後の気分も、何となく引立てられるような心地になる。懐中に金の無い銀ブラ人は、商店の飾り窓を覗いて歩くだけでも、淋しい慰藉になると共に、そこに音づれる時代の心をも看取する事が出来やう。」
 このあたり、いわゆるウィンドーショッピングの名スポットだったのだ。ここに書かれている‶プレイガイド″は、僕の学生時代の70年代当時も鳩居堂のコーナーと並ぶ銀座のチケット売り場の拠点で、来日する外タレ(シカゴなどのロックバンド)のチケットなんぞを友人と探しにきたおぼえがある。
 越後屋の昔のDMは、なかなか文章も凝っている。たとえば、昭和20年の終戦の年の師走のDMはこんな枕で始まる。
()べては焦土と化した 然し私共の心は()けませぬ フェニックスが炎々たる猛火の中から 完全に甦へるやうに 今私どもは新生の悦びに輝いて居ります」
 そして、戦前から戦後20年代くらいにかけてまでのDMには、横須賀や千葉、東金町……といった近郊の町の公会堂や旅館で催される出張販売会の告知が目につく。‶珍製品、銀座式斬新柄″なんてキャッチフレーズを見ると、越後屋の和服が‶憧れの都会ブランド″だった感じが伝わってくる。
横須賀での催事の案内状
横須賀での催事の案内状
 さて、取材当日、ガス灯通り側にショーウィンドーを見せた店を(のぞ)いてみると、季節柄、夏の浴衣生地が正面の品台を飾っていた。伝統的な名古屋・有松絞のものもあるが、ネコちゃんのイラストなどをちりばめたカジュアルな柄も見られる。こういうイマドキのデザインの生地を眺めると、夏の花火や祭りのときに若い人の間で浴衣がブレイクしていることがうなずける。
猫の浴衣地を手に、「僕は犬派なんだけど」。
猫の浴衣地を手に、「僕は犬派なんだけど」。
 そう、8月(ことしは3日)に泰明小学校の校庭や銀座通りで催される「ゆかたで銀ぶら」も、銀座の夏フェス的な定番イベントになりつつある。
今つくれば「ゆかたで銀ぶら」に間に合います
今つくれば「ゆかたで銀ぶら」に間に合います

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