Ginza×銀ぶら百年 Vol.10
銀ぶら百年 ~イズミ式銀座街並細見~
小学校の王様 泰明小探訪
数寄屋橋にできた東急プラザ銀座の6階に大阪法善寺横丁の丸福珈琲店が入っている。僕は、東京駅の大丸上階のイノダコーヒとか、東京にある関西の喫茶店が好きで、この丸福も割と立ち寄るのだが、南側の窓際席に座るとみゆき通りの街並みがよく見える。とくに、ちょっと外に突き出した席から眺める泰明小学校の景色が気に入っている。先日、ここから小学校の門前を眺めていたら、遠目にも美しそうな女性たちがぞろぞろと校内へ入っていった。おそらく、なにかの説明会で来た児童のお母さま方だろうが、場所柄、なんとなく高級クラブのママみたいな人……を連想してしまった。いまどき、この小学校にはどんな子どもたちが通っているのだろう。そんな興味もあって、泰明小学校を取材することにした。
正面玄関
フランス門とシャレたアーチ型の窓を並べた塀の先から校内へ入る。校長室で第31代目になる和田利次校長よりお話をうかがった。和田校長、昭和30年生まれというから僕と同世代なのだ。
「現在の児童数は334名、30名弱のクラスが学年あたり2組、12学級規模です」
イメージしていたより生徒の数は多い。しかし、ほとんど越境通学なのではないだろうか?
「ひところよりは地元に居住している児童が増えてきたと思います。学区内通学者が30人以上、1丁目や8丁目あたりにファミリー向けのマンションが増えてますからね。中央区内ということでは、晴海や勝どきのほうから都バスで通学する子がかなりいるんですよ」
銀座の商店の2階に暮らしている児童、なんてのはさすがにもういないようだが、住居は移っても、4代続けて泰明という、オールドファンの家は何軒か存在するらしい。
現校長が31代、ということから察せられるように、創立は明治の11年。玄関先に碑が置かれているが、草創期の明治14、15年ごろには北村透谷と島崎藤村が2学年違いで登校していた。明治45年にモダンな円筒型ホールのついた2代目校舎が竣工、大正12年の関東大震災まで使われるが、この時代の地図を見ると泰明小のすぐ裏、外堀川ぞいを市電(旧・外濠線)が通っている。そう、震災復興期の昭和4年に現在の外堀通りが拡幅整備されて市電線路もこちらに移され、一連の区画整理工事に合わせるように、現行の鉄筋コンクリート校舎が誕生する。
校庭から校舎をのぞむ
アーチ型の窓を含めて、半円の曲線が1つのポイントになったこの建物、設計者に高名な建築家の名はないけれど、麗しい。俯瞰(ふかん)した姿は、昭和初期にハヤッた流線型電車のようでもあり、かたわらに水辺があることを思えば、船舶をイメージしたところもあるのかもしれない。同時期、数寄屋橋の向こう岸にできた朝日新聞の社屋もよく軍艦にたとえられた。
ちょうど昭和4年(12月)に刊行された今和次郎の『新版大東京案内』に、できたてホヤホヤの校舎(6月から使用)の解説がある。「昔の銀座が赤煉瓦で作られた頃、我国最初の煉瓦造りの小学校として当時ハイカラの名を恣(ほしいまま)にした古い歴史ある学校であるが、今は汽船を思はせるダーククリームの三層楼、超モダンの名で呼ばれる校舎で復興した。工費四十五万円、一年三ヶ月を費した鉄筋コンクリート建で総坪千二百九十八坪、教室二十、七百人を容れる講堂、屋上運動場、地下室等もあって、贅沢に一列に並べた教室は、採光に申し分なく、理科、手工、唱歌、図画等の特別室は、いづれも最新式の設備を尽してゐる。殊に児童等が小学校でお湯が使へるシャワーバスの室等に至っては、さすが超モダンの名に背かない。電気スチームの装置まで各室に備へてあり、屋上運動場に隣接して小綺麗な小公園が完備し、屋上は花壇の片隅になってゐる。市内目ぬきの場所ではあり、附近に帝国ホテルがあるため、外人の参観を考慮に入れて、小学校としては最高の費用と材料を使用して、はづかしからぬものにしたのである」
震災後の復興小学校は防災、安全を重んじて、多少金は要っても堅牢(けんろう)に造られた、という話は聞くが、この解説を読むと泰明小が特別だったことがよくわかる(和田校長によると、屋上の描写にはやや疑問点があるとのこと)。とりわけ、“帝国ホテルの外人の参観”という指摘は、さすが今氏の慧眼(けいがん)だ。
さらに、開校百周年を記念して刊行された『泰明百年ものがたり』によると「医務室はちょっとした病院くらい医療機械があって、弱い子ども、皮膚病の子どもは太陽灯を定期的に照射し治療していた」という。ま、太陽灯とはたぶん紫外線照射のことだろうから、いまはまずあり得ない。
この学校史に昭和12年の60周年誌に発表された、泰明児童の特徴が載っているのだが、これが興味深い。
「 一. 機敏にして世才に長け明朗なり。
二. 温和優美にして上品なり。
三. 身体著しく弱く耐久性が乏しい。
四. 剛健の気風少く独立心に欠くるものあり。
五. 打算的投機的心情に支配され易い。」
一、二、あたりはともかく、三の項目などを読むと、医務室の太陽灯照射との関連が思い浮かぶ。要するに、頭は回るが虚弱なお坊ちゃんお嬢ちゃんが多い……ということなのだろうが、根の部分はいまもあまり変わらないのかもしれない。HPの校長のメッセージには、「体育知」というキーワードを使って体育学習の重要性が論じられている。
「中学受験の影響なのか、学習の力はあるのですが、体育も大切な学習です。区の体力テストの平均値が低いので“泰明タイム”と名づけて、1校時目の前に20分、軽い運動の時間を設けました」
この朝会の時間帯は、読書や音楽集会にあてられる日もある。
運動とともに食事も大切だ。こういう銀座のど真ん中の学校の給食、ってのも気になる。試しに、HPに記載された7月1日の献立表を見ると、「わかめごはん、みそ汁、はたはたのから揚げ、ひき肉と春雨の辛味炒め、メロン、牛乳」とあって、さすがに僕の子ども時代よりは豪華な感じだが、これは区内小で統一された共同の献立なのだ。が、泰明小学校ならではのオプションもある。1学期に1回、ミシュラン星つきの懐石料理「銀座小十」の奥田透シェフに出汁(だし)を取ってもらった給食が振る舞われるという。
地の利といえば、社会科実習で付近の画廊めぐりをしたり、宝塚歌劇や歌舞伎の鑑賞会が催されるのもこの学校ならではだろう。
さて、当日は校長の案内で校内を散策した。1階には職員室や保健室(医務室の後継だろうが、もう太陽灯はないはずだ)などのほか、戦後開園した幼稚園の施設が並び、裏窓の向こうにプールが見える。小さな園児向けプールに取りつけられたペンギンのオブジェがかわいらしい。
プール完成時の写真
現在もペンギンは健在!
2階は小学校低学年の教室だが、一角に設けられた資料室に、先の透谷と藤村を筆頭に歴代の卒業生名士の略歴や著作品がずらりと並んでいるのがすごい。近衛文麿、金子光晴、岡田嘉子、歌舞伎役者で「カフェー・プランタン」松山省三の息子でもあった河原崎國太郎、資生堂の福原信三、慶應大学教授で「天金」の池田弥三郎、さらに加藤武、朝丘雪路、中山千夏、新橋売れっ子芸妓のまり千代……と、そうそうたる面々だ。
資料室で過去の写真を拝見
図書室に卒業生の紹介が
そして、この2階の突きあたり、あの特徴的な半円ドームの部分に置かれているのが講堂。正面の壇上、赤い幕の上に刻まれた校章の星のマークが目にとまる。一見、共産圏のシンボルのようにも見えるが、この校章ができて20年後につくられた校歌(明治42年発表)も「み空の星」と名づけられ、空の星が歌われている。
講堂の壇上にも星の校章が輝く
そして、和田校長が演壇の左隅の武骨な鉄扉をギギィと開けると、あら不思議、その先に洞穴のような階段が現れて、湾曲した通路を下っていくと1階の体育館の脇に行きあたった。まあ、構造的には半円ドームの1階が体育館、2階が講堂、というだけのことなのだが、この隠し階段のような仕掛けはおもしろい。円の曲線に従ってつくられたのだろうが、昭和初めらしいセンスを感じる。
講堂の裏にらせん階段
この校舎、昭和20年5月の空襲で全焼、戦後忠実に復元(焼けて曲がった鉄筋の一部が残されている箇所もある)されたものだから、戦前製とはいいがたいが、体育館にはかなり古めかしい助木(ろくぼく)があった。
最後に校庭に出て、みゆき通りのほうを眺めると、フランス門越しにカフェのオーバカナルが垣間見える。そのビルの外壁にもツタが繁っているのは、向かいの泰明小に合わせたのかもしれない。